サザンオールスターズは国民的バンド、歌謡曲こそ揺るぎなきアイデンティティ 1990年 1月13日 サザンオールスターズのアルバム「SOUTHERN ALL STARS」がリリースされた日

サザン休止期間明けのアルバム「SOUTHERN ALL STARS」

サザンオールスターズの『SOUTHERN ALL STARS』(1990年)。ファンの間では、ジャケットから “カブトムシ” の呼称でも知られる。セルフタイトルはデビュー作に冠される例が多いが、サザンの場合、原由子の産休などを理由にした休止期間が明け、前作から約5年ぶりに発表された9作目のオリジナルアルバムがそれだった。

そんな “カブトムシ” は、万博みたいな雰囲気のトータルコンセプトアルバムである。

60年代のブリティッシュビートがGS経由で復刻された「フリフリ '65」。ジプシー・キングスを彷彿とさせる全編スペイン語詞のラテンポップ「愛は花のように(Ole!)」。ほぼ全編英語詞のブルースロック「悪魔の恋」。ビーチ・ボーイズの翻案といえる多重アカペラ「忘れられた Big Wave」。原由子が歌う沖縄民謡風「ナチカサヌ恋歌」。スウィングジャズがブラックコンテンポラリーの解釈で再構築された「MARIKO」。大森隆志の作曲によるアフロテイストの「GORILLA」等々。

編曲には、後にJ-POP屈指のプロデューサーとなる小林武史が参加。シンセサイザーから繰り出された様々な装飾は、バンドらしさを薄め得るリスクと引きかえに、桑田佳祐の国際色豊かなアイディアが残らず集約される “万博会場” を形成している。

1983年のアルバム「綺麗」から始まったアイデンティティの追求

本作のコンセプトに至る経緯を遡ってみると、発端とみられるのはこれより7年前のアルバム『綺麗』(1983年)だ。『綺麗』もまたロックに限らぬ古今東西のジャンルが集約されたトータリティで、万博会場の役割をしたのは当時のトレンドであるニューウェイヴサウンドだった。

続く『人気者で行こう』(1984年)では、ニューウェイヴサウンドとバンドアンサンブルの調和が発展した一方で、新たにジャポニズム(対外的な和風志向)が表出。休止前の2枚組大作『KAMAKURA』(1985年)では、日本という単位ではなく地元の都市圏・鎌倉を発信地とみなして世界水準に挑むコンセプトが感じられる。つまりこの時代のサザンは、日本で生まれたロックバンドないしポップグループとしてのアイデンティティについて1作ごとに追求心を深めていたのだ。

そこで更に見逃せないのが、休止期間中に桑田が(サザンから松田弘のみを誘い)1年間限定で結成したKUWATA BANDである。唯一のオリジナルアルバム『NIPPON NO ROCK BAND』(1986年)は、そのタイトルとは逆説的に全編英語詞で構成。作曲・編曲面も英米のマナーに準じた硬派なものであり、いわば自分たちが “本場” のロックバンドに化け得るかを試している実験作だった。

その後、サザン再始動宣言と同時期に桑田の正式なファーストソロアルバム『Keisuke Kuwata』(1988年)も発表。藤井丈司(サザン御用達のマニピュレーター)と小林武史の助力が大いに影響した同作では打ち込み主体となり、最先端のブルーアイドソウルが踏襲されている。引き続き “本場” を強く意識したようすのトータリティではあるが、曲調には従来の歌謡色も幾分か戻ってきており、まさに桑田がKUWATA BANDとサザンとの中間地点にいたときの記録である。

以上の変遷を踏まえて、再始動後初のオリジナルアルバム “カブトムシ” を聴けば、自分探しの揺り戻しが起きていたことが分かる。異国情緒のカオスの先にみえる無国籍性こそ自分たちのアイデンティティだという『綺麗』で体現されたコンセプトが、紆余曲折を経て再浮上したわけだ。その動向には、80年代後半より日本に到来したワールドミュージックブームへの返答という意味合いも含まれていたと思う。

異国情緒を感じさせる曲順の妙

今日ではグローバリゼーション(経済、政治、社会、文化を相互依存させる世界規模における “脱領域化” の思想)という言葉が常用されるが、音楽界でその言葉に近い標榜だったのが当時のワールドミュージックブームである。

ワールドミュージックとは、セネガルのユッスー・ンドゥール、マリのサリフ・ケイタ、パキスタンのヌスラト・ファテー・アリー・ハーン等々、特有の民族的なスタイルを継承する音楽家が、ポップカルチャーの大市場に歩み寄ったかたちの音楽。あるいは反対に、元々ポップカルチャーの側にいた音楽家が、民族的なスタイルを敬意をもって取り入れたかたちの音楽を指す。従って “カブトムシ” は、後者の側面をもち合わせたアルバムともいえるだろう。

ただし、明らかにブームに呼応した路線の「愛は花のように(Ole!)」などが要所に収録されていることで、日頃から我々が親しんでいるはずのロックやソウルやドゥーワップやジャズの路線も、アルバムの流れの中ではいつになく異国情緒を感じさせるのが特徴。曲順の妙である。アジアの極東に暮らす我々からしたら本来、大概の音楽は遥か彼方からやって来たワールドミュージックなのだという種明かしにもなっている。

歌謡曲こそ日本発のワールドミュージック

そして本作で最も興味深いのは、そういった国際色豊かな中に「さよならベイビー」「OH,GIRL(悲しい胸のスクリーン)」「逢いたくなった時に君はここにいない」という極自然な歌謡色を帯びた(和風が殊更に強調されていない)バラッドが3曲紛れていて、いずれもが “万博の日本館” として誇らしい輝きを放っていることだ。

そうか、歌謡曲こそ日本発のワールドミュージック、揺るぎないアイデンティティだったのか… ということに気づかされるのである。ひょっとすると、このとき彼ら自身も結果として気づいたことなのかも知れない。

同年のうちに発表された桑田佳祐監督作・映画『稲村ジェーン』(1990年)のサウンドトラックは、“カブトムシ” と重複した楽曲を含む姉妹作といえる仕上がりだったが、これ以降のサザンで異国情緒のカオスを狙ったと思しきアルバムは制作されていない(関口和之のみが現在もソロワークスでコンセプトを引き継いでいる)。

ロックに悩み、ポップに悩み、ふと自分たちの居場所が見えにくくなったときにいつでも還れるところは歌謡曲であると、もうすっかり確信しているからだろう。言い換えれば、サザンが向き合う相手は茫洋とした世界ではなく、日本国民になったのだ。

国民的バンドの90年代は、こうして始まった。

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※2019年1月13日に掲載された記事をアップデート

カタリベ: 山口順平

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