「誰にも渡したくなかった」 元横浜大洋エース、選手寿命縮めた開幕投手の自負と後悔

現在は横浜市の野球塾で小中学生を指導している遠藤一彦氏【写真:宮脇広久】

87年に右アキレス腱を断裂「腱が弱っていたのでしょうね」

横浜DeNAベイスターズがかつて「横浜大洋ホエールズ」と称していた時代に、エースとして君臨した遠藤一彦氏。得意のフォークボールを武器に通算134勝、沢村賞1度、最多勝2度など輝かしい実績を誇った。右足アキレス腱断裂の大ケガを乗り越え、1992年に現役を引退。今でも、横浜の地で野球と向き合っている。

向かうところ敵なしだった。遠藤氏は横浜大洋のエースとして、82年から6年連続2桁勝利。83年からは5年連続で開幕投手を務めていたが、プロ人生は突然暗転する。87年10月3日、敵地・後楽園球場で行われた巨人戦でアクシデントに見舞われた。

走塁中に、二塁ベースを回った瞬間、右足アキレス腱断裂の重傷を負い、担架に乗せられて退場。「実は、それほど痛くはなかった。『捻挫したかな?』と感じた程度。それ以前から痛みがあって、痛み止めの注射を腱に直接打っていた。腱が弱っていたのでしょうね……」と振り返る。

ケガを負ったこと自体は仕方がないが、復帰を焦ったことを後悔している。「僕は開幕投手にすごくこだわりがあった。あの最高の緊張感を誰にも渡したくなかった」と言う遠藤氏は、全力疾走にほど遠く、60~70%のスピードでしか走れないにも関わらず、翌88年の開幕を目指して急ピッチでピッチング練習を重ねてしまった。その結果バランスを崩し、開幕投手を欠端光則氏に譲った上、シーズンでは5勝12敗、防御率4.76。連続2桁勝利もストップした。前年にリーグ最多の15に上った完投数も1に激減し、スタミナ不足は明らかだった。

2年間の不振を経て、90年には抑えに転向し21セーブを挙げてカムバック賞に輝いた。しかし、2年後の92年には37歳で現役引退。「アキレス腱を切った時に、慎重にリハビリをしていれば、選手寿命は伸びた可能性もあった」という悔いが残った。

野球塾で指導する遠藤一彦氏【写真:宮脇広久】

現在は横浜市の野球塾で小中学生を指導「ケガをしたら休め」強調

現役最終年の92年にも3勝を挙げ、翌年の現役続行へ意欲を持っていたが、シーズン終盤に球団から「構想外」の通告。引退か、他球団への移籍を模索するかの決断を迫られた。最終的には、恩師と慕う元監督の関根潤三氏に電話をかけ、「“大洋の遠藤”で終わる方がいいだろう」という言葉に背中を押された。

その年の10月7日、本拠地・横浜スタジアムで行われた巨人戦が引退試合となり、先発し2回無失点。この試合で、高卒ルーキーにして7回からプロ初登板を果たしたのが、今季からDeNA監督を務める三浦大輔氏だった。遠藤氏は引退セレモニーで、長年エースと守護神の2枚看板として共にチームを支えた1歳上の斉藤明夫氏と抱き合い、涙を流した。

遠藤氏の引退と歩調を合わせたかのように、「横浜大洋ホエールズ」の名称は消滅。翌93年から「横浜ベイスターズ」と改称された。ベイスターズは98年、遠藤氏が現役時代に1度も経験できなかったリーグ優勝と日本一を達成。その時、遠藤氏は2軍投手コーチを務めていて、一歩引いた立場で歓喜を味わった。

「名前が変わったとはいえ、自分が入団したチームが優勝したのはうれしかったです。僕らの現役時代に若手だった石井琢朗、シゲ(谷繁元信氏)、野村(弘樹氏)、(三浦)大輔らが主力に成長して勝ち取っただけに、親近感がありました」と目を細める。そして、クライマックスシリーズの常連となった現在のDeNAを「本物のプロ集団になった」と評する。

遠藤氏は現在、横浜市の野球塾「JAA(ジャパンアスレチックアカデミー)」のピッチングインストラクターとして週4回、小中学生を指導。この仕事に就いてから丸14年が経過しようとしている。技術を教えるのはもちろんだが、自身の現役時代の苦い経験から、子供たちに「ケガをしたら休め」と強調する。懐かしき「横浜大洋ホエールズ」の名称は過去のものとなったが、遠藤氏は65歳となった今も、同じ横浜で変わることなく野球に情熱を注いでいる。

「JAA(ジャパンアスレチックアカデミー)」
練習場:横浜市港北区北新横浜1-12-1 あおばスポーツパーク1階
事務局:横浜市港北区北新横浜1-7-5-103
電話:045-947-2760(宮脇広久 / Hirohisa Miyawaki)

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