「災害」福島から 望郷10年「戻るのは無理」 原発事故 被災地を歩く

静まり返ったJR大野駅周辺。バリケードの向こうは「帰還困難区域」=福島県大熊町

 静寂が、辺り一帯を包んでいた。
 2020年の暮れが近づいた12月上旬、福島県大熊町のJR大野駅前。戦後、地域の玄関口として栄えた商店街の周辺はバリケードが行く手を阻んでいた。人々の営みが消えた街ではアスファルトの割れ目から雑草が伸び、ガソリンスタンドには車が放置されている。まるで時が止まっているかのようだ。東日本大震災と東京電力福島第1原発事故が発生した10年前から-。
 太平洋沿岸に位置し、隣接の双葉町とともに福島第1原発が立地する大熊町。バリケードの先は年間放射線量が50ミリシーベルトを超える「帰還困難区域」だ。立ち入りは原則禁止されている。
 11年3月の大震災と原発事故では、県内の最大16万人以上が避難。国の避難指示区域は最大時、11市町村の計約1150平方キロメートル、県全体の約8.3%に及んだ。
 その後、国はインフラ復旧や住民帰還を進めるため、年間放射線量が高い順に、区域を▽帰還困難区域▽居住制限区域▽避難指示解除準備区域-に再編。除染作業などで区域は徐々に小さくなり、現在は帰還困難区域だけになった。その広さは県面積の約2.4%(約336平方キロメートル)。避難指示区域最大時と比べると3割まで縮小した形だが、大熊町など7市町村にはなお残り、計約2万2千人が避難を続ける。除染やインフラ整備が進むことが解除の条件だが、同県によるとその大部分で見通しは立っていない。
 大熊町は約8年、全町避難が続いた。19年4月以降、段階的に解除されてきたが、住民登録している約1万300人に対し、帰還者ら実際に居住しているのは281人(20年12月現在)と、動きは乏しい。
 厳しい現実を物語る数字がある。町が20年1月に公表した住民意向調査結果。古里に「戻りたい」は、わずか10.6%にとどまった。「避難先で生活基盤が既にできている」「原発の安全性に不安がある」-。こうした声が上がった。
 南相馬市の吉田ヒサ(73)も避難者の一人。自宅は大熊町の帰還困難区域にある。約1年前、約50年連れ添った夫を亡くした。死にひんしても望郷の念を口にしていた夫。「『帰りたい、帰りたい』って言いながら死んでいった。かわいそうだったね」
 もう戻らないからと、古里の家を解体した避難住民もいる。吉田もいずれそうするつもりだ。「放射線は目に見えるものじゃねえ。土やごみを集める施設もできた。もう戻るのは無理じゃねえの」。それでも、帰りたい気持ちもある。「先祖からの墓もあるし、やっぱり寂しいもんだわ。大熊で暮らせるもんなら暮らしたいよ」。複雑な胸中を吐露した。
 吉田が言う「施設」とは、除染作業で生じた廃棄物を搬入し、焼却・保管する「中間貯蔵施設」のこと。福島第1原発を取り囲むように、大熊町と双葉町の帰還困難区域内にある。国は21年度中の廃棄物搬入完了を目指し、45年度までに県外で最終処分する方針だが、処分地を巡る議論は進んでいない。
 大野駅周辺を抜け、国道を車で走る。その間、幾度もすれ違ったのは、汚染土が入った袋を載せ、ごう音を立てて中間貯蔵施設へ向かう大型トラックだった。
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 東日本大震災と東京電力福島第1原発事故から3月で10年。放射線被ばくに遭った福島の今を見詰め、復興への課題や被爆地長崎の役割などを考えた。
=敬称略=


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