「1.17 祈りの朝 知らずとも、伝えてゆける」阪神・淡路大震災を知らない世代はいま(2)  能楽師・西尾 萌さん(西宮市・2000年生まれ)

1.17、祈りの朝が来た。26年前、暗闇の中、凍える体を包むものはなく、ただ茫然と立ち尽くした私たち。数分前まであった居場所が、わずか数十秒で無残な姿に変わる。2021年、自然災害・自然の脅威への対処は「防災・減災」という形で意識づいたように見えた。しかし世界を襲った見えない魔物・新型コロナウイルスとの向き合い方に答えを見い出せていない。

阪神・淡路大震災から26年。犠牲になった人々への鎮魂の祈りは同時に、新型コロナウイルス収束への祈り、そして生き方の変容を求められながらも、必ずや日常を取り戻す誓いとなる。

阪神西宮駅南「震災大時計」震災当時、西宮中央商店街のアーケードにかかっていたが撤去の際にモニュメントとして移設 5時46分を差したまま(西宮市田中町)
震災後の西宮中央商店街〈※写真提供・日本地震学会 西影裕一さん 1995年4月16日撮影〉

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神戸薬科大学に通う能楽師・西尾 萌さん(20・大学2年)が西宮市で生まれたのは「ミレニアム・イヤー」となった2000年。1月に明石市の仮設住宅の解消を最後に被災地の仮設入居者がゼロとなった。そして2月に政府の復興対策本部が解散、5年という一つの節目を迎えた。3月には184日にわたる淡路花博(ジャパンフローラ2000)が淡路町・東浦町(現・淡路市)で開幕した。 この年、政府が「激甚災害」の指定基準を緩和する。

西尾萌さん(2000年・西宮市生まれ)

その後、日本列島は東日本大震災や熊本地震、さらに幾たびの風水害にさいなまれる。そして20年経ち、世界中で新型コロナウイルスという見えない敵と対峙することになろうとは誰が予想できただろうか。こうした中、新たな歴史を紡ごうとする20歳の女性が、被災地から世界へ伝統文化の伝道師としてはばたく。

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■「世界最古」といわれる日本独自の舞台芸術『能』、その魅力に取りつかれるまで

師匠である人間国宝・観世流シテ方 梅若実玄祥さんからの指導

私は幼い頃から、芸術文化プロデューサーである祖母にミュージカル、バレエ、宝塚歌劇、能など様々な舞台を観賞させてもらいました。小学4年の時に、祖母の薦めで現在師事している梅若実玄祥先生(うめわか・みのるげんしょう 日本芸術院会員・人間国宝・観世流シテ方)に能を習い始めました。師匠が優しく教えて下さるので続けていましたが、正直なところ当時は能の面白さにはまだ気付いていませんでした。
本気で能を習いたいと思うきっかけは、高校2年の時に受けた音楽の授業です。教科書で偶然開いたページに、能の説明が書かれていました。世界最古と言われる能、なぜ650年以上も続いているのだろうと疑問に思い調べるうちに、能の面白さに気付き始めました。

■阪神・淡路大震災を知らない世代、「橋掛かり」でつなぎ他人事から我が事へ

橋脚が落下した阪神高速道路・3号神戸線(西宮市・甲子園付近)〈※写真提供・日本地震学会 西影裕一さん 1995年4月16日撮影〉
再建中の西宮神社〈※写真提供・日本地震学会 西影裕一さん 1995年4月16日撮影〉

神戸にお住まいの能楽師の先生に、阪神・淡路大震災のお話を聞きました。壊滅的なダメージを受けたのは街並みだけでなく、人々の心だったこと。 阪神・淡路大震災を体験していない私にとっては、想像をはるかに超えた事実を聞かせてもらったものの、どう返事をするべきなのか分かりませんでした。人々の心の癒しとなるために、当時は他県の能楽師の方々が募金をつのり、義援能を開演されたそうです。

能『猩々(しょうじょう)』~古典書物に記された架空の動物を演じる西尾さん〈※写真・西尾さん提供〉
「芸術・文化にも人の心を救う力がある」と西尾さん 2020年12月、大阪・山本能楽堂で初めて能面をつけた〈※写真・西尾さん提供〉

はるか昔から語り継がれている能には、自然災害の復興を祈る作品が多くあります。例えば「翁」という演目。これはその中でも 「能にして能にあらず」といわれる、別格の一曲です。この「翁」は他の能と違い、神聖な儀式としてとらえられています。物語めいたものではなく、演者は天下泰平・国土安穏を祈祷する舞を舞うのです。かつて文明が未発達だった頃、自然災害や飢饉などがおこると、人々は「神の怒りを鎮める」という意味もふくめて祈りを捧げました。能はその一端を担っていたのです。“芸能”という枠を超え、祈りに通ずるこの文化に、私はなにかすごいパワーを感じます。食べ物や衣類など、物理的に人を救う手立てと同様に、芸術・文化にも人の心を救う力があるのだと、その時の話から強く学びました。

また、能には「亡くなった方の魂を慰める」といった物語も多くあります。 能舞台には、本舞台の向かって左側に「橋掛かり」と呼ばれる長い廊下があります。これは現世と黄泉の世界とをつなぐ道ととらえられ、演目の中では“ 幼くして亡くした子供と母親が再会する ”というようなシーンが描かれます。
能の世界の死生観では、当たり前に行き来ができるこの特性を活かせれば…私は、そういった作品を観る、演じる折に触れて、感じること・知っていることを話し、またゆくゆくは震災をテーマにしたオリジナルの現代能を演出してみたいと考えています。
時とともに震災が風化されてはいけません。数百年も伝えられ続けている祈りや舞いがあるように、26年前の出来事を直に知らない私たち世代が、それを知り、次へと伝えていくことが大切だと思います。その伝える手段の一つとして、私にとっては能があり、それを通して向き合えればと思います。

■能を本格的に世界へ 新作能に秘めた魅力を

新作能『マリーアントワネット』フランス・パリ公演(オペラ・コミック)〈※写真・西尾さん提供〉

2019年10月、新作能『マリーアントワネット』フランス・パリ公演にマリーアントワネットの侍女役で出演させて頂きました。現地の方々が親しみやすい題材の作品でしたので、能の魅力に気付かれた方は多かったと思います。フランスの方々から、「同じ能面なのに、処刑台へ行く前のマリーアントワネットが泣いているように見えた」「マリーアントワネットの人間らしさが少ない動作の中で感じられた」という感想を頂きました。言語を越えて、日本人が大切に受け継いできた能の魅力が伝わった素晴らしい機会だったと感じています。

現代能「マリー・アントワネット」(2019年10月)パリ公演のパンフレット 

■多くを語らない能~withコロナ、その魅力の伝え方に大きな変化が

世界を襲った新型コロナウイルス、能の公演をする機会が減り、表現方法が大きく変わりました。コロナ時代に対応して、YouTubeチャンネルで能について紹介されている能楽師の先生方も多くいらっしゃいます。私は、若い世代の方々にも能に興味を持って頂きたいと思い、Instagramを通して能の魅力を伝えています。大学の同級生が、「Instagramを見て萌ちゃんの能を観てみたくなった」と言ってもらえた時はとても嬉しかったです。「能が大好きな女子大生がいる、能ってどんなものなんだろう」、私がそのきっかけになりたいのです。オリンピック・パラリンピックや万博が日本で開催されるということは、世界中の方々が日本に注目される絶好の機会です。多くの方々に能に触れて頂けるように、柔軟な考えを持ち、新しいアイデアをどんどん生み出していきたいです。

大学では薬学を学ぶ西尾さん 医薬の神・少彦名神社(大阪・道修町「神農さん」)では巫女としても

能は、多くを語りません。動きや台詞も必要最小限に抑えられています。多くを語らないがゆえ、その楽しみ方は観客の気持ち次第なのです。その日の自分の気分、出演している能楽師の演じ方、囃子方の音の奏で方などで、同じ作品でも毎回違ったテイストに感じます。これこそが素晴らしいところです。台詞の意味が分からないから、眠くなってしまうとよく耳にします。難しく考えず、この演目は何を伝えたいのだろうと、台詞の意味を想像すると能を観るのが楽しくなると思います。

■1.17 祈りの朝、「穏やかな日々を取り戻せますように」

「能楽師の演じ方、囃子方の奏で方にも注目を」同じ演目でも毎回、仕上がりは異なる

被災された方や当時を経験された方は、“知らない世代”の私が感じるより、もっと計り知れない想いをたくさん抱えていらっしゃるのだろうと、本当に心が痛みます。何か自分に出来ることはないか?小さなことでも、いま自分に出来ることを精一杯努めていきたいと思います。心に傷を負った皆さまに一日でも早く穏やかな日々が戻りますように。心からお祈り申し上げます。

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いまは『能楽師と薬剤師の二刀流』西尾萌さん

◇西尾 萌 にしお・もえ 2000年西宮市生まれ。幼少より人間国宝・観世流シテ方梅若実玄祥(うめわか・みのるげんしょう)氏に能の手ほどきを受け、海外の舞台も多数経験。『能楽師と薬剤師の二刀流』を目指し、神戸薬科大学に通いながら能の研鑽をつむ。自身と同じ若い世代に日本古典伝統芸能の中でも敷居が高いとされる能楽を周知するため、自らが『能の伝道師』となり、さまざまな取り組みに挑戦している。

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