【昭和ロックを語る時が来た!】エディ潘 本牧の米軍基地にジェームズ・ブラウンも来たよ

レジェンドとの対談にユカイもテンションMAX(顔写真はジェームズ・ブラウン)

【ダイアモンド☆ユカイ 昭和ロックを語る時が来た!:エディ潘編】「レッド・ウォーリアーズ」のボーカル、ダイアモンド☆ユカイ(58)が、ゲストを招いて昭和の日本に巻き起こったロックムーブメントをひもとく。今回からは伝説のバンド「ザ・ゴールデン・カップス」のギタリストだったエディ藩(73)が登場。日本にロックが浸透し始めた1960年代、横浜で何が起こっていたのかを聞く。会場は同バンドを生んだ横浜・本牧の「ゴールデンカップ」。カップスは優れた演奏技術をどう身につけた? あのころ、ロック好きが横浜を目指したのはなぜ? デビュー前の矢沢永吉はなぜ横浜を拠点にした?

ユカイ エディさんといえば、俺もカバーした「横浜ホンキー・トンク・ブルース」が有名です。作詞は俳優の藤竜也さん、作曲がエディさん。松田優作さんや原田芳雄さん、石橋凌さん、宇崎竜童さんといった名だたる俳優、歌手がカバーし、エディさんは松田さんのツアーにもギタリストとして参加していました。松田さんとの話は後で聞くとして、まずはゴールデン・カップスとしてデビューしたころの横浜のことを聞かせてください。キャシー中島さんとの対談では、当時の横浜、中でもここ本牧が日本のロックの拡散拠点だったという話でした。

エディ あのころ、1960年代は、この本牧辺り全体がアメリカそのものだったよ。麦田町のトンネルの向こうとこっちじゃ、空気のにおいも違ったね。思い出すのはガソリンとコカ・コーラが混じったようなにおい。ここにあった米軍基地は他とちょっと違って、パスなしで俺たちも入れたんだよ。

ユカイ え? 入り口で厳重にチェックするのではなく?

エディ 横須賀なんかはチェックが厳しかったから入れなかった。いろんな基地を回ったけど、ここはフランクだったな。フェンスはあっても、ガードは緩かったよ。すぐそこに映画館やボウリング場があって、日本人は買い物できなかったけど、その先にPX(米軍基地内の売店)があって。店やネオンサインもトンネルの向こうとは全く違った。

ユカイ そんな街でエディさんがロックに出会ったのは?

エディ 横浜ってさ、米軍が呼んだ人がよく来てたんだよ。この店を出てちょっと行った辺りに、昔は「ビル・チカリング劇場」ってのがあって、そこにリッキー・ネルソンやエヴァリー・ブラザースなんかが出ててね。そういうのを子供のころから見てた。エルビス・プレスリーはさすがに来なかったけど、ジェームス・ブラウン(JB)も来たよ。

ユカイ 子供のころからそういうのを見れたんですか! 恵まれてるなぁ。それにしてもよく入れましたね。

エディ コネがあったからね。米軍関係者に「見に行きたい」と言ったら連れて行ってくれたり。確かに恵まれた環境だったね。で、この店に出るようになったころは、たまに「JBのバックでやってた」みたいなヤツが客として来てさ。

ユカイ 誰だろう? ジミー・ノーレン?

エディ JBのバックは人数も多いし、今となってはわからないな。いろんな楽器ができてさ。俺たちの演奏を見て、終わるとテクニック的なことをいろいろ教えてくれたんだよ。リズムの使い方とか、「こういうカットをして、こう間を置くんだよ」とか、目の前でギターを弾いて見せてくれた。

ユカイ 当時の横浜のすごみを感じる話ですね。ミュージシャンが横浜を目指した理由が見えてくる。

エディ「一緒にやろうぜ」って演奏したりね。日本のロックが“ズズタタ”って8ビート全盛のころ、JBの16ビートのリズムに2拍子が入った変拍子みたいな、不思議なリズムの取り方とかも、それでわかってきた。

ユカイ 60年代後半でしょ!? それはめちゃくちゃ早いですね。カップスはテクニック面もズバぬけてましたが、ルイズルイス加部さんやマモル・マヌーさんもそういうことから吸収してたってことですか?

エディ いろいろ勉強になったと思うよ。

☆エディ・バン 1947年6月22日生まれ。神奈川県横浜市出身。デイヴ平尾らとザ・ゴールデン・カップスを結成し、67年に「いとしのジザベル」でデビュー。グループ名は出演していたライブハウス・ゴールデンカップから。脱退、復帰を経て同グループは72年1月に解散。以後はソロで活躍。作曲した「横浜ホンキー・トンク・ブルース」は数々の歌手、俳優に歌われている。

☆ダイアモンド・ユカイ 1962年3月12日生まれ。東京都出身。86年にレッド・ウォーリアーズのボーカルとしてデビュー。89年に解散後、数度再結成。

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