「ID野球の走りでした」母校に戻った元燕・飯田哲也氏が恩師から受け継ぐもの

U-18侍ジャパン監督も務めた小枝守氏【写真:Getty Images】

一昨年の1月21日にこの世を去った小枝守監督は今も多くの指導者から愛される

千葉の名門・拓大紅陵の元監督で、2016年からの2年間はU-18侍ジャパン監督を務めた小枝守氏。日大三の監督時代を含め、甲子園には春夏通じて10回出場。一昨年、肝細胞がんのため、都内の病院で亡くなった。1月21日で2年が経過した。教え子だった元ヤクルトの飯田哲也氏は「ID野球の走りでした」と監督の野球観を振り返る。今はその系譜を継ぎ、母校で指導を行っている。

現在、拓大紅陵の非常勤コーチの飯田氏は、1986年春・夏の甲子園に出場。3年生の時は強肩強打の捕手として活躍した。ロッテに入団した佐藤幸彦氏と同級生で、県内無敵を誇った世代だった。

「いい選手が集まっていたというのもありました。新チームになってから、千葉では一回も負けなかった。チームは通算で負けたのは2回だけ。センバツの新湊戦と夏の甲子園での東洋大姫路戦。甲子園で負けた2回でした」

率いた小枝監督は、選手の適材適所の起用、相手のスキを見つけることに長けていた。早くから投手分業制を提唱したり、未経験のポジションへのコンバートも積極的に行うなど、時代を先に行く監督だった。生前にはその指導を受け継ぎたいと開催した勉強会には、多くの若き指導者が集まっていた。

飯田氏もコンバートされた一人だ。投手だったが、新チームの秋から捕手へ。これが大当たりだった。

「捕手の経験もありませんでした。でも、捕手の面白さに気がついてしまったんです。併殺を取りたいところで内野ゴロを打たせて、ゲッツーがとれると楽しかったですね」

苦い思い出もある。チームで一番、野球の能力が高かったため、ナインの“怒られ役”はいつも飯田氏だった。

「監督のこと思い出すと『厳しい』という言葉しか出てきません。怖かったです。ノックなどの守備練習でミスが起きると、怒られるのは全部、捕手の僕でした。エラーや連携ミスが出ると心の中で『みんな、勘弁してくれよ~、しっかりしてくれよ~』と思っていました」

緻密な野球で知られた小枝監督から、細かい技術指導はされた記憶はあまりない。練習メニューなどは監督が一から考え、選手に指示を出して、やらせていた。指揮官は鋭い目つきで選手がきちんと練習しているか、五感を使って把握していた印象だ。

「監督は選手をよく見られていて、性格もよくわかっていた。なので試合でも選手への指示はよくありましたし、よく当たりましたね」

2年秋のセンバツ出場をかけた関東大会の試合。飯田氏はベンチで小枝監督から呼ばれた。

拓大紅陵の非常勤コーチを務める飯田哲也氏【写真:荒川祐史】

甲子園をかけた一戦で一言「お前はスライダーを狙え」その真意は?

「相手の先発投手がすごくスライダーが良い投手だったんですが、『お前は相手の決め球を狙え』と言われました。なので、そのスライダーを狙ったら、ホームランを打てたのです。そうしたら、今度は相手のスライダーが減ってきて、攻略できました」

夏の甲子園で準優勝するなど、聖地で何度も炸裂した“小枝マジック”は人心掌握と相手の分析にあった。この時、飯田氏は自分が信頼されていることを感じた。

「性格を把握されていたんでしょうね。ある試合では、僕が三塁走者で、6番バッターにスクイズのサインが出たんです。でもバッターは、全くする雰囲気を感じない。なので、バントの構えをしたら、スタートを切ろうと思ったんです」

結局、バッターが構えることはなく、飯田氏も走らなかった。2球目もスクイズのサイン。打者はようやく気づき、バットを出した(結果はファウル)。

「ベンチに戻ったら、監督はそのバッターに『お前、あれは飯田だったから、スタートを切らないでやってくれたんぞ。一球目からサインが出ている』と叱っていました。僕がとっさにした判断をわかってくれてました」

試合の流れを読みながら、飯田氏が機転を利かせていたプレーも把握していたのだった。

「監督からは相手の考えていることを考えてやりなさいと、考える野球の大切さを教えていただきました。80年代ですから、今思うと、ID野球の走りでしたよね」

投手から捕手へのコンバートの理由を聞かされたことはない。ヤクルト入団後も、野村克也監督のもとでは、捕手から二塁、そのあと外野にコンバートされ、飯田氏はさらに才能が開花している。野村監督からも直接はコンバートの理由は聞いてはいない。

そんな2人の恩人は天国へと旅立った。もう聞くことはできない。

「理由ですか? 聞きたいとは思わないですね。小枝監督が『あいつならできる』と思ってくれたのかなと思っています。野村さんもそうだったのかなと思います」

恐れ多くて、高校時代は腹を割って話すことはできなかった。当時は強面の監督だったため、「あんまり(プロ入りを)喜んでくれていない印象がありました」と振り返るが、2年前の小枝氏の葬儀で監督夫人の弥生さんから「ずっと応援していたよ、と言っていただいて……」と心が締めつけられた。

「毎年、お正月に挨拶に行っていました。調子はどうだ?、と。その時はもう仏の顔になっていましたね。プロに入るときは『子供には夢を、大人には技と感動を』の言葉を大事にして、やっていましたね」

小枝監督は教え子によく言葉を送っていた。卒業式では色紙にその選手へ込めた思いを書いて、渡すのが恒例だった。「社会のレギュラーになりなさい」「苦労は背負うな、前に置いて飛び越えろ」などと、一社会人にも響く言葉だ。飯田氏が贈られた言葉にはプロ野球選手としての在り方が凝縮されていた。

飯田氏は昨年から、恩師に厳しい指導を受けたグラウンドに戻ってきた。2学年下の元ロッテ投手の和田孝志監督とともに生徒たちに指導する。選手の性格を把握し、タイミングよく言葉を送る。恩師のマネをしているつもりはないが、生徒にとって一番大切なことだと感じている。それを教えてもらった2年半の高校生活に感謝している。(楢崎豊 / Yutaka Narasaki)

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