長崎甚左衛門

 今年は長崎開港450年。「開港の祖」とも呼ばれるのが、キリシタン大名大村純忠の家臣で開港当時の長崎領主、長崎甚左衛門純景(じんざえもんすみかげ)だ▲純景は現在の長崎市桜馬場一帯を支配していた。キリシタンであり、純忠の娘を妻とした。長崎に攻めて来た深堀氏や諫早の西郷氏を幾度も撃退している。戦にたけた勇将だと言えよう▲長崎で純景の知名度は高い。長崎公園(上西山町)の広場に立派な銅像がある。ただ、ポルトガル貿易のために純忠が建設した「六カ町」(現在の江戸町、万才町付近)の造成に純景が関わった確証はない。歴史学者の故外山幹夫氏は、純景が長崎貿易から排除されていたとみて「開港の祖」とは言えないと評した▲純景の晩年は不遇だ。江戸幕府に召し上げられる形で先祖伝来の長崎を失い、大村藩から代地として時津村を提示されたが、断って柳川藩主の田中吉政に仕えた。武士の意地だろう▲ところが田中家が断絶し、大村藩に帰った。横瀬浦(西海市)で余生を送り、1622年に73歳で死去した。夫妻の墓は長崎から遠く、養子が領有していた時津町浜田郷小島田にある▲明治の頃、地元の人は墓を「殿塚」と呼んでいた。先週訪ねると、かれんなスイセンが供えられていた。戦国の世を生き抜いた武将の波瀾(はらん)万丈の生涯をしのんだ。(潤)


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