金本知憲「指導禁止令」「骨折」乗り越えチームのために連続出場

片手打ちでヒットを放った金本

【球界平成裏面史・平成16年の金本知憲(3)】岡田彰布新監督のもと開幕から4番を託された平成16年(2004年)の金本知憲外野手は苦悩していた。「体はどこも悪くない。むしろ今までよりも一番いい」のに、なかなか好機で期待に応える一打が出なかったからだ。

開幕から1か月、巨人戦では対戦打率4割近く打っていたが、その他4チームとの対戦では再三の好機に凡退を繰り返した。元来がスロースターターで「毎年、春先は悪い。広島時代と同じ」と表向きは平静を装っていたが、4番の重圧は相当なものだったのだろう。鉄人らしからぬ〝弱音〟を聞かされたことがあった。

「監督、コーチからは全てを任されているけど、何か一つ簡単なことでもいいから助言が欲しいんや。例えば『体が前に突っ込んでいる』とか、気づいたことがあれば何でもいいんやけど。何も言われないのも、こっちは不安なんや…」

選手が悩んでいる時、的確な助言をするのがコーチの仕事。しかし、この年ばかりは事情が違った。岡田監督が「年俸1億円、2億円もらっている選手に1000万円、2000万円のコーチが何を教えるんや。本人に任せればいい」とコーチ陣に高給組への〝指導禁止令〟を発出していたため、コーチ陣もアドバイスのしようがなかった。

孤軍奮闘を余儀なくされていた金本だが、5月15日時点で2割4分8厘だった打率は7試合連続安打、無安打1試合を挟んで6試合連続安打と安打を重ねて2割8分前後まで上昇。6月29日の巨人戦(甲子園)で、古巣・広島の大先輩にあたる「元祖・鉄人」衣笠祥雄を抜いて歴代2位の679試合連続フルイニング出場を達成。8月1日の巨人戦(甲子園)では阪神OB・三宅秀史を抜く701試合連続フルイニング出場の日本新記録を樹立した。

ただ、この記録ラッシュも順風満帆だったわけではない。夏場に差し掛かったころには右太ももや右内転筋に違和感が発生。とどめに7月29日の中日戦(甲子園)では、岩瀬仁紀から左手首に死球を食らった。「オレはもともと(死球を)よけるのがうまい」と自画自賛してきたものの、この時は疲労の影響もあったのか、もろに当てられてしまった。それでもプレーは続行。試合後の検査でも「打撲で骨には異常なし」と診断されていたが、実際には剥離骨折だった。他紙に先駆けて報じたのは8月10日発行の本紙で、仰天事実は意外なルートから判明した。

金本はこの年からかねて師事してきた〝炎の護摩行〟で知られる鹿児島・最福寺の池口恵観法主に何度か関西まで足を運んでもらい、座禅修行を断行していたのだが、その過程で「実はヒビが入っていました。だから、かなり痛いです…」と報告していたのだった。

金本にとっては自身の記録だけでなく、チームのためにも骨折の事実を隠す必要があった。骨折となれば完治まで1か月はかかるし、ましてや移籍2年目で4番を託された身。だからこそ「複雑骨折以外は出る」と言い張り、試合に出続けた。ぶつけられた翌日の巨人戦(甲子園)では久慈照嘉の軽量バットを拝借して2安打。右手1本、鬼の形相でヒットを放つ姿はまさに「鉄人」の象徴的なシーンとして今も語り継がれている。

余談だが、記者はこのシーズン中、草野球で左ふくらはぎ肉離れを経験した。仕事の合間にこっそり球団のトレーナーに痛みが残る箇所を見せると「カネはこんな状態にテーピングをミイラみたいにグルグル巻き、ガチガチに固定して野球をやっとる。走って守って…恐ろしいやろ」と教えてくれた。

シーズンを通じて虎の4番を務めあげた平成16年の金本は打率3割1分7厘、34本塁打、113打点と打撃3部門で当時の自己最高成績をマークした。チームは66勝70敗2分けで4位に沈んだものの、自身は初の打点王に輝いている。のちに金本は「去年の優勝がマグレと言われんよう相当気合が入っていた」「左手首を骨折した、あの時だけは記録のために出続けた」などと、この年を振り返っている。

金本の連続試合フルイニング出場記録は平成18年4月9日の横浜(現DeNA)戦で904試合に達し、世界記録保持者だったカル・リプケンを抜いた。最終的に自身の記録を1492試合まで伸ばしてギネス認定も受けた。「世界の鉄人」へとばく進するターニングポイントとなったのが、平成16年だったのである。

=終わり=

(岩崎正範)

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