ジャイアント馬場の急死から22年… 「京平、今日は無理だ」大会直前に起きた〝最初の異変〟

菊地毅にパイルドライバーを狙うG馬場。この6人タッグマッチが生涯最後の試合となった(1998年12月5日、東京・日本武道館)

【ジャイアント馬場が死んだ日「空白の27時間」(1)】〝世界の16文〟〝東洋の巨人〟として一時代を築いた故ジャイアント馬場さん(本名・馬場正平=享年61)が1999年1月31日、肝不全のため亡くなってから22年がたつ。2月4日には東京・後楽園ホールで「23回忌追善興行」(東京スポーツ新聞社後援)も行われる。亡くなった当時は「巨星堕ちる」の報道に日本中が悲しみに包まれたが、22年が経過した今、改めて馬場さんが亡くなった長い1日と「空白の27時間」を再検証する。

99年1月31日午後4時4分。馬場さんは東京・新宿区の東京医科大病院で亡くなった。前年12月末から体調の不良を訴えて入院。1月8日には腸閉塞の手術を受けたものの、退院の日は訪れず肉声は聞かれないままで、容体が気遣われていた。

病室に入れたのは夫人の元子さん(享年78)、和田京平レフェリー(66)、仲田龍リングアナ(享年51)、馬場さんの姉とめい、元子さんのめいの「馬場ファミリー」のみだった。明確なかん口令が敷かれていたわけではない。だが「余計なことは一切口にしない」という、馬場さんの近くにいた人間なら誰もが心に刻んでいた暗黙のルールを皆が守り続けた。当時、和田氏は何度も病院のロビーで待ち続けていた記者に「大丈夫、大丈夫。元気にしてるよ」と言い続けた。

ここで容体が悪くなるまでの経過を振り返る。98年11月30日仙台大会終了後に風邪の症状を訴え、12月2日松本大会で異変が起きた。和田氏が運転するバスが会場に到着すると、馬場さんは「京平、俺は今日は無理だ。試合には出れない」と車から降りることを拒否した。

元子さんが「馬場さん、そんなこと言わないで、さあ行きましょう」と言っても「無理だと言ったら無理だ!」とガンとして聞かなかったという。その瞬間、和田氏は「どんな時でも休まなかった馬場さんが出ないという。これはただごとではないと感じた」と察知した。

結局、元子さんと仲田氏が付き添う形で開場前の体育館を後にして、松本発新宿行きの特急電車で帰京。そのまま東京医大付属病院へ直行した。

「その夜に『京平さん、大変だったよ。横から支えたけど馬場さんが歩けなくて…』と龍から連絡が入った。でもまだその時はハッキリした病名は俺たちには分からなかったんだよね」(和田氏)

自宅で休養後に同3日静岡大会を欠場するも、シリーズ最終戦となった同5日の日本武道館大会には出場。結果的にはこれが馬場さんの最後の雄姿となった。この時点でまだ元子さん以外の人間は、馬場さんの異変に気づいてはいない。翌6日から恒例のハワイ旅行へ出発する予定はそのままだったからだ。

そして出発当日、事態は急変する。元子さんがハワイ旅行をキャンセルする意向を和田氏に連絡してきた。一転して旅行は中止。馬場さんはそのまま緊急入院することになる。=続く=(運動二部・平塚雅人)

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