江戸を関東の中心都市にしたのは豊臣秀吉だった(歴史家・評論家 八幡和郎)

東京都千代田区長選挙が1月31日に投票である。珍しく4候補による激しい争いになっているが、これを機会に、千代田区と江戸城の成り立ちを紹介しておきたい。

『徳川実紀』という江戸幕府の正史があるが、そこには家康が江戸を選んだのは豊臣秀吉の指示によるものだと書いてある。ウソだという人もいないわけではないが、徳川サイドの正史で、家康自身が徳川家の本拠を選んだのに、秀吉の命令だと書く動機がないから本当なのだろう。

家康ファンの江戸っ子としては認めたくないだろうが、仕方ない歴史的事実だ。それに、江戸を選んだのが秀吉だというのは、『徳川実紀』にそう書いてあるというだけが根拠ではない。その立地がまことに秀吉好みで、とくに大阪にそっくりなのである。大坂と江戸は、大きな平野を背後に控えて、大河川の河口に近く、海に面した丘陵地帯の先端ということで共通している。

ここで、江戸城周辺が家康入国のころどうなっていたかを地名と関連させてみよう。国会議事堂の裏に平河町という地名があるが、江戸築城のときに城内から移された平川明神という神社があることから名付けられたものだ。

本来の平川は、水道橋付近にあった大きな池から現代の日本橋川のルートを呉服橋あたりまで下り、南に流れて江戸湾に流れ込んでいた。小さくなった平川は、東に流れを変えられて日本橋の下を流れ、永代橋のあたりで隅田川に合流させられた。

また、水道橋から秋葉原方面へ新しい神田川が掘削された。神田川は、武蔵野市の井の頭公園を水源とするように開発されたが、水量が豊富になり、関口大洗堰(鶴巻町付近)で神田上水として分流された。神田川の上を「水道橋」で立体交差して越えて江戸市中に上水を提供したというわけだ。

アメリカ大使館近くの溜池という地名は、赤坂、四谷あたりの雨を集めた池に由来する。そして、この二つの流域を四谷から市ヶ谷あたりを掘削してつないだのが外堀である。「千鳥ヶ淵」も麹町付近に降った雨を集めた池だったが、これは内堀の水源になった。

上野・浅草方面に目を移すと、不忍池がもっと大きな池だったし、千束付近は巨大な湿地帯だった。吉原の遊郭は、それを開発したものだ。ただし吉原の地名は、ここに移転する前に日本橋人形町に葦が茂っている原を開発してできた「葭原遊郭」が吉原と改名したのを引き継いだものである。

海のほうでは、現在の銀座中央通あたりが低い尾根になっており、汐留を岬にした半島で、江戸前島といった。その西側が日比谷入り江で、日比谷公園あたりが、湊になっていた。この入り江を埋め立てて造成したのがの銀座である。また、浅草付近も隅田川に沿った微高地、集落になっていた。

忘れられがちなことですが、太田道灌は、何もないところに城を築いたのではない。もともとは江戸氏の本拠だったのである。江戸という地名の由来は、大河や入り江の入り口だとか、アイヌ語の鼻のことだとかさまざまな説があるが、いずれも当てずっぽうに過ぎない。常陸の名門江戸氏の出身地も那珂郡江戸郷(ひたちなか市)というので、よくある地名なのだろう。

現在の区あたりは秩父氏の勢力圏で、その一族があちこちに盤踞していたが、平安時代末期の平重継という武士が、ここに居館を構えて、地名をとって江戸氏と名乗った。

太田道灌は扇谷上杉氏の家臣だった。摂津源氏で、源平時代に似仁王と挙兵して敗れた源三位頼政の子孫である。丹波国桑田郡太田荘(亀岡市)にあって太田氏と名乗り、同じ丹波の上杉荘(綾部市)が領地だった公家の上杉氏の先祖と一緒に関東に下った。

道灌が文化人だったのは伝統的な関東武士とはひと味違った出自も理由である。よく知られる僧形の肖像彫刻や、旧都庁前の銅像の古風な狩装束(かりしょうぞく)の印象から温和な人物にみられがちですが、実像は切れ者でかなり高慢なやり手だった。

道灌は幕府と上杉氏が組んで鎌倉公方を古河に追い出したあと、江戸城を築いた。当時は利根川河口がの隅田川の河口だったから、利根川を挟んで古河を監視するには絶好の場所だった。

このとき同時に川越城も整備したが、そこの日枝神社を江戸にも勧請して、現在皇居の一部になっている紅葉山に置き、江戸城の鎮守とした。その後、麹町隼町を経て明暦の大火のあと赤坂の現在の場所に移った。つまり、この日枝神社は、大津市坂本の御本家・日吉神社の子どもでなく孫ということになる。

外交役として上洛した道灌は、将軍・足利義政から江戸のことを問われて「わが庵は松原つづき海近く富士の高嶺をのきばにぞみる」と詠んだのは、日比谷公園のあたりが船着き場で、江戸城のあった皇居や国会議事堂は高台だったからだ。

このころ、上杉氏でも山内、扇谷両家が対立していたが、山内上杉氏は、道灌がやり手過ぎるというので、扇谷上杉氏に道灌謀反の噂を吹き込み、扇谷上杉氏の本拠だった糟屋館(神奈川県伊勢原市)で殺させた。

そののちも、江戸は武蔵南部の重要な拠点のひとつとしてそこそこ重視され、扇谷上杉氏自身が拠点としたこともあった。また、東京湾の主要な港のひとつでもあり、まったくの寒村であったわけではない。

江戸城のあたりは、太田道灌のころは武蔵国荏原郡だった。しかし、地形の変化もあって、古川(麻布あたりを流れる川)を郡境にして、江戸城は荏原郡から豊島郡に移ることになった。そこで、古い絵図には「武蔵国豊島郡江戸庄」などと記されている。

明治になって南北の豊島軍にわかれたが、そのときには東京市ができていたのでその領域は豊島郡から除外されたが、だいたいの感じで云えば、豊島区・北区・荒川区・板橋区・練馬区・文京区・台東区が北豊島郡、渋谷区・新宿区・千代田区・中央区・港区の北部が南豊島郡と考えればいいと思う。

そして、1878年(明治11年)から1947年(昭和22年)までの期間は、東京市に麹町区と神田区があって人口は合計で20万人くらいいたそうだが、戦災にあって人口も減り、合併して千代田区になった。千代田は江戸城の別名千代田城による。

 ここでは、太田道灌と江戸時代の千代田区周辺の地図を付けておく。これは拙著『日本史が面白くなる「地名」の秘密』(光文社知恵の森文庫)からとった。これに限らず、コンクリートの下にある昔の地形をさぐると町の歴史がよく分かる。『日本史が面白くなる47都道府県県庁所在地誕生の謎』 (光文社知恵の森文庫)では、すべての県庁所在地について地図付きで紹介している。

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