<レスリング>【特別寄稿】経験を活かして人生の勝利者を目指してほしい…森田武雄(全国高体連専門部・元理事長)

(寄稿=森田武雄(全国高体連専門部・元理事長/群馬・館林市議会議員)

元専門部理事長の森田武雄さん

 新型コロナウノルスの感染拡大を受け、昨年4月26日、史上初のインターハイ中止が決まった。私も、51年ぶりに群馬県館林市で開催されるレスリング競技の関係者の一人としてショックは隠せなかった。特に高校生は3年間の集大成として出場を夢見ていただけに残念である。

 春の全国高校選抜大会も秋の国民体育大会も開催されなかったが、かろうじて全国高校選抜大会が10月に行われた。開催に尽力した方たちに感謝の意を伝えたい。

 館林市では、昭和29(1954)年8月に全国高体連主催の第1回全日本高校レスリング選手権大会が開催された。館林高校は第1回、第8回(昭和38年=1963年)、第16回(昭和44年=1969年)の計3回の優勝を果たしている。公立高校としては立派な成績である。

 第16回のインターハイは51年前、館林市において開催された。私はこの地元開催のインターハイのおかげで、昭和41(1966)年に母校・館林高校の教員になることができた。着任3年目のインターハイで団体3位。翌年、地元で団体優勝をすることができた。

 全国大会参加の記録を振り返ってみると66回の大会中、約3分の2に参加したことになる。後半は競技役員で行ったので生徒引率がなく、夏休みなので帰途は家族旅行にも利用した。

多くの選手がインターハイをステップに世界に飛躍

 思い出に残るのは競技委員長としての9年間である。審判員の判断処置がよくて大事には至らなかったが、計量時に無理な減量から熱中症の選手が出たことや、宮崎県では台風の接近により、試合時間の変更など苦慮したことが思い出される。

上毛新聞に掲載された森田さん

 かつてのインターハイでは熱中症対策は考えられなかったが、いつからかエアコンの設置が必要になった。第40回(1993年)の足利市ではレンタルのエアコンを設置、第41回(1994年)の滑川市では、エアコンの設置台数が多すぎて寒かったような経験もした。昨夏の館林市もレンタルで対応する予定だった。夏のインターハイの室内競技は、熱中症防止のため暑さ対策を考えなくてはならなくなっている。

 教員生活が34年間あったので、高体連との関わりは思い出は尽きない。インターハイをステップに日本のレスリングで活躍する選手を多く輩出してきた。館林でのインターハイでチャンピオンになった大分県の伊達治一郎氏(1976年モントリオール金メダリスト)、秋田県の茂木優氏(同出場)、青森県の吉田栄勝氏(吉田沙保里さんの父)を翌年のアメリカ遠征に引率したことを憶えている。

 伊達氏も吉田氏も故人となっている。吉田氏の奥さんは孫を連れて館林のインターハイに来ることを楽しみにしていた。中止の報は残念だったと思う。第16回のインターハイでは本県に多くのレガシーを残した。当時、館林高校1年生で母校の応援をしていた現・明和町教育長の金子博氏(元県高体連会長)や日本レスリング協会副会長兼専務理事の高田裕司氏らが本県の活躍を見ていた。

 私自身は、競技経験者として県内第1号の教員となった。現在では10数名の指導者がいる。県内の実情を見ても、野球以外の指導者は少ない。かつての勝利至上主義も薄れ、国体でもジプシー選手を取るような対策もなく、自前の選手で大会を闘う傾向があるようだ。

プレーヤーとしての思い出

 部活動は、中学では柔道と野球を経験した。高校に入り半年間、野球部に、その後レスリング部に入部した。当時上級生に国体、インターハイのチャンピオンがいた。同級生に小幡洋次郎(旧姓上武=1964年東京・1968年メキシコ金メダリスト)君がおり、よきライバルとして長くつきあっている。

1969年世界選手権(アルゼンチン)で優勝した時の森田さん

 彼は高校2年生で国体優勝、3年生でインターハイ優勝、そして第1回日米親善大会にも参加している。早大に入学し2年目にオクラホマ州立大に留学している。国内の男子では、彼のオリンピック金メダル2個の記録は破られていない。ちなみに私は東京、メキシコ大会の補欠である。

 51年前のインターハイの選手の指導にも小幡君はよく来てくれた。かなり厳しい指導なので選手には恐れられていた。今回のインターハイに対しても外部コーチとして長年指導に当たってきたが、中止の報にショックを受けていた。

 私は明大に進学したが、2年時の春季新人戦のフェザー級の決勝戦で小幡君と対戦し私が勝利している。翌日の新聞には、「上武敗れる」という見出しがあった。オリンピック選考会でも私がバンタム級に下げて闘った。

 最終戦で私は完敗した。彼とは昭和43年全日本選手権で一緒に優勝したが、これは高校3年時の関東大会以来2度目の同時優勝である。

「経験こそわが師」…高校生に贈る言葉

 選手生活を続け思い出に残るのは個人の成績はともかく団体戦の成績である。高校では全国大会3位、大学では4年生の時に主将として52名の部員とともに春秋完全優勝したことは忘れられない。

 3年間の部活動の経験は、どんな立場になっても役立つ。多くの教え子を送り出しても、レスリングにかかわりを持つ生徒はほんの少数である。経験を活かして人生の勝利者を目指してほしい。「経験こそわが師」という言葉を贈る。

 森田武雄(もりた・たけお)1942年12月17日、群馬県出身。群馬・館林高~明大卒。1964年東京オリンピックは逃したものの、翌1965年の世界選手権(英国)で銅メダルを獲得。1968年メキシコ・オリンピックも逃したが、翌1969年の世界選手権(アルゼンチン)で勝ち、その屈辱をはね返した。

 歴代の日本のオリンピック・世界チャンピオンの中でも、寝技の強さといえば、56年メルボルン大会優勝の笹原正三と森田の2人が双璧といわれる。世界王者のときは群馬・館林高校の教員。日本に数多くいるオリンピック・世界王者の中で、高校教員で世界一に輝いたのは初めて(のちに佐々木禎)。

 2018年10月、75歳で群馬・館林市の市議会議員に出馬して当選。市議会議員として活動している。

 

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