ボ・ガンボスの凄まじい躍動感、なんという高揚感、どんとの魂に幸あれ! 1989年 7月1日 ボ・ガンボスのデビューアルバム「BO&GUMBO」がリリースされた日

どんとが暮らした町で開催されていた追悼イベント “どんと祭り”

僕が今住んでいる町には、かつて “どんと” が暮らしていた。1989年から沖縄へ移住する1995年までというから、ボ・ガンボスの活動期間とぴったり重なる。僕はどんとが町を去った3年後に引越して来たので会ったことはないが、折りに触れ「どんとさんがさぁ」とよくその名前を聞いたものだった。

「お寺で “どんと祭り” があるから行こうよ」と友人に誘われたとき、どんと焼きでもするのかと思ったら、2000年に亡くなったどんとを追悼するイベントだった。どんとが亡くなってから2012年まで毎年行われていた。地元のミュージシャンに交じって、ボ・ガンボスやローザ・ルクセンブルグのメンバー、奥様の小嶋さちほ、桑名晴子や友部正人など、どんとゆかりのミュージシャンが参加していたのも今では懐かしい。

どんとの沖縄の家に居候していた友人や、どんととの再会がきっかけでこの町に移り住んだミュージシャンも知っている。さらに結婚した妻がボ・ガンボスの大ファンだったりと、僕の周囲では今もどんとの話題が尽きることはない。ちなみに、どんとのラストライブは2000年1月17日。僕の30歳の誕生日だった(ただの偶然だけど)。

ローザルクセンブルグ脱退後、どんとが組んだ凄いバンド、ボ・ガンボス

ボ・ガンボスがデビューした頃のことは、僕も覚えている。ローザ・ルクセンブルグを脱退したどんとが凄いバンドを組んだというニュースを、いくつかの音楽雑誌で読んでいたし、バンド名からニューオーリンズ音楽の影響を受けているであろうことは想像できた。とはいえ、僕はまだニューオーリンズの音楽についてほとんどなにも知らなかった。ドクター・ジョンのアルバム『ガンボ』を聴いたことがあるくらいで、そういうロックファンはけっして少なくなかったように思う。

そして、ラジオから流れてきたボ・ガンボスの音楽は、それほど僕の心を揺さぶるものではなかった。リズムはユニークだったし、個性も際立っていたが、サウンドは所謂日本のロックバンド然としていた。そこが洋楽ばかり聴いていた僕には響かなかったのだろう。こうして、ボ・ガンボスはなんとなく気になるバンドのまま解散し、どんとも気になる人のままこの世を去っていった。

だから、僕がボ・ガンボスをちゃんと聴くようになったのは、この町に引越して来てから、とりわけ結婚後だったりする(妻がCDをたくさん持っていたので)。そんなことを思うとき、なんだか不思議な気持ちになるのだ。

メンバーDr.kyOn監修「1989」、25年の時を経て近付いた音の本質

そして2015年1月、ファーストアルバム『BO&GUMBO』の発売25周年を記念したボックスセット『1989』がリリースされた。ここでようやく僕はボ・ガンボスの本当の凄さを知ることになる。メンバーだったDr.kyOn監修によるリマスターとリミックスを聴いたときの感想は、ただ一言「ぶっ飛んだ!」というのが正しいだろう。

凄まじい躍動感。
生命力。
ずんずん突き上げてくる。

まるで音が隆起するかのような立体感に、僕は文字通りのけぞった。

なんという高揚感だろうか。元々ボ・ガンボスが目指していたのは、こうした祝祭的なサウンドだったに違いないと思った。同時に、オリジナル盤の音がいかにフラットであったかも思い知らされたのだった。

もしかすると、当時の日本のロックの制作現場では、こうした音感覚がまだ成熟しておらず、サウンドを具現化するスキルもなかったのかもしれない。その辺の事情には詳しくないので偉そうなことは言えないが、1989年である。そうだとしても無理はないだろう。そして、25年という時間を経て、ようやく当時メンバーが目指していた音の本質に近づいたのかと思うと、それはそれで感慨深かったりもするのだ。

『BO&GUMBO』が出た年に、どんとはこの町に来て、ボ・ガンボスが解散するまで暮らした。そして、たくさんの人達に大切な想い出と音楽的な足跡を残していった。今でも僕はそのお裾分けを受けているのだと思う。

そんなすべての繋がりに感謝を。
どんとの魂に幸あれ。

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※2019年1月28日に掲載された記事のタイトルと見出しを変更

カタリベ: 宮井章裕

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