【藤田太陽連載コラム】手応えのないままに阪神のドラ1として入団

新人選手の甲子園見学で。左から藤田、伊達、赤星

【藤田太陽「ライジング・サン」(14)】社会人2年目に日本代表メンバーに選出され、インターコンチに出場しました。個人としては最優秀防御率として表彰され、チームも銅メダルを獲得。その翌年は2000年シドニー五輪となる予定でした。自分の夢でもあった五輪の表彰台で金メダルを首にかける姿。しかし、それは実現せぬまま終わります。

五輪の合宿には招集されましたが、僕は期間中に背中の肉離れを起こしてしまいます。投球時に後ろから叩かれたような感覚に襲われ、何が起こったか分かりませんでした。僧帽筋の下に入っていて背骨から肩甲骨につながる菱形筋を痛めてしまいました。

そのまま五輪メンバーからも外れて、社会人最後となるシーズンは、そのままほぼ投げずに終えてしまいました。

担当スカウトの阪神・佐野さんには「大きなけがだけはするなよ」と言われていました。背中の肉離れは幸いにも後遺症の残るようなけがではありませんでした。

とはいえ、大事な時期に故障してしまったわけですが佐野さんは「いい時も悪い時もある。大事なのは地道に練習することだよ」と変わらぬ姿勢で接し続けてくれました。

社会人野球に入って1年目は体づくり。2年目は爆発的に飛躍して、3年目はけがして、そのまま迎えたドラフトでした。

在籍最終年の3年目に僕がしっかり活躍して、都市対抗で優勝でもしていれば「よし巨人にいくぞ」となっていたかもしれません。でも、なかなかうまく野球選手として波に乗り切れない自分を評価してくれ、なおかつ長い目で見てくれたのは阪神でした。

当時は最下位だった阪神ですが、そういうチームに入って自分の成長とともに強くなっていければいいなという気持ちが、うまくパズルのピースとしてハマったような心中でした。

まあ、そうはいっても当時は怖さしかなかったですね。楽しい、楽しいというのは全くなく、怖さしかなかったです。取材陣にぐるりと囲まれても、どこか人ごとな状態でした。

取材してもらって紙面やテレビニュースになっている自分は、自分ではなくただやらされているような感覚です。しっかりアマ球界で活躍もできてないのに、こんなのでドラフト1位が決まってしまうのかという気持ちでしたね。

もちろん、プロには行きたくて人には言えないくらい練習した自負はありました。でも、練習すればすればするほど不安になる。理想と現実のギャップで。こうやって投げているイメージなのに、結果的に抑えてはいても何かが違う。

自分は完璧主義なところがあり、プロ入り後にもそれが邪魔になったことも多くありました。結果、抑えられればいいじゃないか、とはなれなかった。

インターコンチではヤクルト・岩村明憲さんや、のちにチームメートとなる阪神・浜中治さんらとプレーしました。投手では広島・黒田博樹さんもメンバーに入っていました。ただ当時の自分は、そこと客観的に比較してという状況ではありませんでした。

阪神を逆指名という道を選ぶわけですが、各紙虎番記者の取材攻勢がすごかったことも、圧倒されすぎてて覚えてないですね。入団会見の前に母親がホテルの部屋のカーテンを閉めようとしたら電動で「えーーーっ」ってなってたのが印象強すぎて会見はあんまりですね。

フラッシュや照明でまぶしかったし暑かったし。緊張しすぎて野村監督を「あっ、本物や」と思ったことを覚えてるくらいですね。新人王取るとか、優勝しますとか記者の皆さんに言わされましたね。

会見場から中継でイヤホンつけて関西の情報番組にも出ました。関西ではすごく有名なベテランアナとやりとりしたのですが、当時の僕は番組もアナウンサーも知らない状態で誰だろうと思いながら、こなしたのも覚えてます。ドラフト後もそんな毎日でしたね。広報の方に言われるがままですよ。

手応えのないまま阪神のドラ1としてのプロ入り。そしてとうとうキャンプ初日がやってきました。各社マスコミが注目していることはもちろんわかりました。常に誰かの目にさらされながら僕は早速、プロの洗礼を浴びることになります。

☆ふじた・たいよう 1979年11月1日、秋田県秋田市出身。秋田県立新屋高から川崎製鉄千葉を経て2000年ドラフト1位(逆指名)で阪神に入団。即戦力として期待を集めたが、右ヒジの故障に悩むなど在籍8年間で5勝。09年途中に西武にトレード移籍。10年には48試合で6勝3敗19ホールドと開花した。13年にヤクルトに移籍し同年限りで現役引退。20年12月8日付で社会人・ロキテクノ富山の監督に就任した。通算156試合、13勝14敗4セーブ、防御率4.07。

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