震災犠牲10歳少女の夢かなえたハンカチ 10年で販売1万枚、収益は全て寄付

姫花さんのハンカチ。塩屋埼灯台を描いた遺作が原画となった

 東日本大震災の津波で亡くなった福島県いわき市の鈴木姫花(ひめか)さん=当時(10)=は絵が大好きで、大人になったらデザイナーになりたいと夢見ていた。生前、地元の塩屋埼灯台をカラフルに描いた絵がコンクールで入賞。10年前、悲嘆にくれる中で両親は「生きた証しを残してあげたい」と、その絵をハンカチにした。地元の土産物店で売り、収益は全て震災義援金として市に寄付すると決めた。

 あれから10年。ハンカチの実売は1万枚以上となり、寄付総額は200万円を超えた。父貴さん(44)は「夢だったデザイナーの仕事を天国でずっとやって、人の役に立っているんだな」と思っている。

 姫花さんら103人の命が奪われた海辺の薄磯地区は土地がかさ上げされ、昨年5月、いわき震災伝承みらい館が開館。今年1月23日から、姫花さんの絵や写真、作文の企画展示が始まった。展示の初日、それまで人前に立つことがなかった貴さんは初めて講話という形でハンカチに込めた思いを来館者に語った。その言葉に、耳を傾けたい。(構成/共同通信・高橋宏一郎)

 ▽亡くなった後も誰かの役に

 ここから5分ぐらいの海が見える高台で、家族4人で暮らしています。職業は学習塾の講師です。震災のことを人に話す機会はあまりなくて、きょうは講話という形で大変緊張していますが、ノープランで来ました。ここで思ったこと、考えたことを話そうと思います。

ハンカチを前に思いを語る姫花さんの父、貴さん(1月23日、いわき震災伝承みらい館で)

 ハンカチを作っています。東日本大震災の津波で亡くなった娘のハンカチです。震災から3カ月ぐらいたったころ、新聞の取材を受けました。東北各地を記者さんが回って、亡くなった人のことを記事にしているという趣旨でした。その中でうちの娘が記事になりました。デザイナーになりたかった夢が断たれて亡くなったと新聞に載りました。

 まもなく京都のデザイナーさんから自宅に電話がありました。「娘さんの夢をかなえられるかもしれません」と。日本グラフィックデザイナー協会の催しで、日本全国のデザイナーが1枚ずつハンカチを作り、それを東京で展示する復興支援プロジェクトを進めている。京都のデザイナーさんは新聞記事を見て、自分がハンカチをデザインするのではなく、この子の絵をハンカチにすれば、全国の名だたるデザイナーと肩を並べて展示される。そうすることで、娘さんの夢をかなえてあげられるんじゃないかと提案を受けました。

姫花さん。歌と絵が好きな小学4年生だった

 震災後、家族ともども気持ちが沈んでいましたので、二つ返事でお願いしました。展示が始まってから東京に私も見に行き、その京都のデザイナーさんに思い切って相談しました。ハンカチの展示は期間が終わればおしまいになる。なんとか娘のハンカチを作り続けられないものか。地元でこのハンカチを販売し続けたい、協力いただけませんか、と。快く承諾してくれました。

 娘に振り込まれた災害弔慰金がありました。いわき市では亡くなった人に大人500万円、子ども250万円が支払われました。そのお金が振り込まれ、私と妻で「どうしようか」と相談していました。お墓、仏壇。それでも余る金額。学校に寄付したらいいのか、いわき市に寄付したらいいのか。当時震災でたくさん困っている人がいたので、そうした人の助けになるように寄付したらいいんじゃないか。いろいろ相談していたのですが、ハンカチ展をきっかけに、よし、このお金をハンカチ製作費用に充てよう。娘がデザインしたハンカチを販売しようと思い立ちました。

 考えようによっては、人生最初で最後の彼女自身が稼いだお金を元手に、彼女のデザインでハンカチを作る。その収益を全て寄付する。そうすることで彼女は亡くなった後でも、ずっと誰かの役に立ち続ける。それは彼女が生きているのと違わないんじゃないかと。私たちは働いて、お金を稼いで、どんな仕事でも世のため人のため役に立っている。その循環を人間社会は繰り返す。それが彼女にも、亡くなった後でもできるんじゃないか。そう考えました。

 多くの方の協力を得て、去年ハンカチの販売1万枚を達成することができました。これまでの寄付総額は200万円以上になります。年月がたつと売れる枚数も減っていくんですけど、それも自分としては残念な気持ちではなくて、復興とか日常の暮らしが取り戻せた証しなんじゃないかなと思っています。あまり枚数は気にせず、このハンカチ買いたいな、手にしたいなという人がいる限り、売り続けていきたいと思っています。

「10年後の自分へ」と題した作文で、姫花さんはデザイナーへの夢を記した

 ▽激しい揺れ、車で迎えに

 震災当日の話をします。2011年の2月22日に次男が生まれました。震災の3週間ぐらい前のことです。娘にとっては2番目の弟です。狭いアパートに住んでいたのですが、家族が5人になり、近くに新しい家を建てようとしていました。娘も長男も自分の部屋ができると喜んでいました。

 ちょうど3月11日は新居の瓦上げの日でした。天気のいい、暖かい日でした。朝、娘を学校に送り出し、新居の瓦上げを眺めたりして午前中を過ごしました。午後2時半ごろ、塾の仕事に車で向かう途中、地震が来ました。ワンボックス車が横倒しになるんじゃないかというぐらいの激しい揺れ。すぐアパートに戻って、妻と次男の無事を確認しました。室内はいろいろなものが散乱していました。

 妻が「姫ちゃんと、こうちゃん(長男)迎えに行って」と言いました。車で小学校と保育園に向かいました。途中、海辺の薄磯地区に私の実家がありまして、母親が家の前に出ていました。車の窓を開けて「大丈夫だった?」と聞くと「姫花はうちに着いているから大丈夫だ」と母が答えました。娘からするとおばあちゃんの家です。下校途中に立ち寄ることがよくありました。

 私は安心したんです。今思えば、そこで車に乗せれば結果は違ったのかもしれないんですけど、当時の私の判断としては、余震が続く状態で車に乗せて回るよりは、母親と一緒に家にいた方が安全だろうと。「じゃあ姫ちゃん、よろしくね。帰りに迎えに来るから。こうちゃん心配だから保育園行ってくるわ」と母に言い、実家を後にしました。

 保育園に着いた時、子どもたちは近くの神社に避難していました。園長は「大津波が来るらしいですから」と。正直その話を聞いても、私はピンとこなかった。大きくても30センチぐらいだろう。園長を助手席に乗せて、近くの神社に行きました。そのとき海をちらっと見ると海面がいつもより高かった。これが津波かなと思って、あまり気にしなかった。

 神社に着いて、泣いている長男を車に乗せて、あとは実家に戻って娘を拾い、自宅に戻って家族と過ごそうと思っていました。

 ▽押し寄せる黒い水

 実家の前に差しかかって、反対側の空き地に車を入れました。出やすいようにバックで空き地に車を入れようとしたとき、空き地の向こうから黒い水がばたばたと押し寄せてくるのが見えました。黒い水がざざざざざーとあふれ出てくる。

 本能的に逃げなきゃと考えて、アクセルを踏んでその場を離れました。本来なら空き地を挟んで実家があって、母親と娘がいて、その2人を残していくことになるんですけど、正直そこまで頭は回らなかった。やばいというだけで、逃げなきゃと。

 高台にいったん避難しました。どうすることもできず、車に長男を置いたまま、実家の方に徒歩で行こうとしましたが、途中で消防団に止められました。ずっと車内にいて夜11時ごろメールが通じるようになって、アパートにいる妻とやりとりしました。「姫ちゃんは?」と聞かれたので「一緒にはいない。おばあちゃんちにいるはずだ」と答えました。

薄磯地区に向かう道路は流されてきた住宅やがれきで埋め尽くされ、通れなくなった=2011年3月11日

 水が引いてアパートに戻り、職場である私の学習塾に避難しました。妻から「姫ちゃんはどうするの?」と聞かれたんですけど「薄磯には入れる状態じゃない。母親は賢い人だから、おそらく2階とかに逃げて助けを待っているだろう。今は自分たちが避難するのが先だ」と言うしかありませんでした。

 一睡もできず、夜明け前に薄磯に向かいましたが、やはり入れなくて、避難所になっていた小学校やゴルフ場を回って娘を捜しました。どこにもいません。

 薄磯に戻って、がれきをかき分けて、実家の前にたどり着きました。何もなかった。白い壁1枚だけが残っていて、あとはもう跡形もなく消えていました。仕事に行く格好のスーツで革靴だったのですが、津波の後に火災が起きた熱が靴の裏から感じて熱かった。津波でというよりは、焼け落ちて壁1枚だけ残ったという感じでした。

貴さんの話に来館者の女性は涙をぬぐった(1月23日、いわき震災伝承みらい館で)

 その状況を見たとき、助かってはいないだろうと正直思いました。だけど、あきらめるわけにはいかない。名前を叫んで、手掛かりになるものを捜す。でも、見つからない。近くで同じように身内を捜す姿が多く見られました。

 変な話ですが、朝焼けがめちゃくちゃきれいだったんです。空爆を受けた後のように何もないけど、水たまりを太陽の光が照らしていて、薄磯全体を朝の光が包んでいる。そのギャップが今でも印象に残っています。

 わずかな可能性をたどって親戚の家も回りました。だけど、来てない。妻に何て報告したらいいんだろう。それだけを思いながら車を運転していました。避難先の塾に戻って「一生懸命捜したけど、どこにもいなかった。見つからなかった。ごめん」と妻に謝りました。ただ、父親が崩れちゃうと家族全体が沈み込むんで、ある程度威勢は張らないといけないという思いもあって「あきらめないから。見つかるまで捜すから」と約束しました。

 友だちと一緒に避難所をまた回りました。消防署も行ったけど情報がなく、最終的には警察署で捜索願を出しました。そんな震災翌日の12日でした。翌日も、その翌日もということが続いている中、原発が爆発したというニュースがあって、そんなこと関係ないと思っていたのですが、さすがに限界がきて、私以外の妻と息子たちを茨城の友人宅に避難させました。

 私の母は震災2日後、実家近くのがれきの中から見つかりました。娘はなかなか見つからなくて、正直生きているとは思っていなかったのですけど、ときどきテレビニュースで「奇跡の生存」をやっていて、人ってそういうの信じたくなるんですよね。記憶を失って南の島にでもたどり着いているんじゃないかとか。

 ▽カナヅチだった娘「よく頑張った」

 震災の7日後、警察から連絡がありました。私の兄と遺体安置所に確認に行きました。間違いありませんでした。遺体は豊間(薄磯の隣の地区)の浜で見つかったと警察官から説明を受けました。薄磯があって、塩屋埼灯台があって、その南に豊間がある。一度津波で沖まで体を持って行かれて、灯台の先をぐるっと回って、豊間の砂浜にたどり着いた。それしか考えられないんですね。私は、すごいなと思いました。

 娘は泳げなかったんです。水に顔をつけるのも怖いぐらいのカナヅチ。そんな娘がよく泳いで戻ってきたなと。えらい、よく頑張った。遺体を目にしながら、ほめてやりました。

 未曽有の災害ってなかなか過酷です。すぐに火葬してお葬式とはいかなかった。火葬場がとても混んでいて、1週間ぐらいかかると言われたんです。娘は外見上けがもなく、きれいなままでしたが、電気も水もなくて遺体の保管が難しかった。せっかくきれいに戻ってきてくれたのに、時間とともに体は朽ちてしまう。それがつらかった。早く天国に送ってあげたい一心でした。

 ▽自分が死なないことが一番大切

 私の話は失敗談なんですね。当時私が賢い判断をしていれば、娘や母を助けてあげられたかもしれない。私の経験は成功ではないので、得られる教訓はないんです。

 それでも年に一度、長崎の島原中央高校が修学旅行で塩屋埼灯台に来てくれて、話をする機会があります。高校生には、自分自身が死なないことが一番大切ですと言っています。まず自分が死なないこと。

 海であっても山であっても、どんな場所でも、津波、地震、火山の噴火、洪水、どんな状況でも、まず自分の命を大切にしてください、自分が死なないことを第一に考えてくださいと。そのためには、たくさんの知識をつけて、身を守る手段を学んでくださいと。

 自分を守る手段を学ぶことができていれば、自分以外の大切な人の命や近くにいる人の命を助けることができるかもしれない。災害について多くの知識を学んでくださいと高校生にはお願いしています。

 きょうお話ししているのはたかだか1万8000分の1です。震災から10年が過ぎようとしていて、新聞・テレビ各社これから特集を組む中で「忘れない」というフレーズが必ず出てくると思うんですけど、私の正直な気持ちを言うと、忘れるほど覚えているのかと。これは自戒を込めて言います。

 東日本大震災で1万8000人、関連死を含めると2万人近くの人が亡くなって、果たしてどれだけ各地の被害を知って、どれだけのことを学んだんだろうかと。忘れないというのは覚えた人に言うことであって、むしろ私たち10年たつ中で、いったいどれほど被害の本当の状況を覚えてこられただろうと思っています。これは私も含めてです。

 ただ、もちろん被害の全て、1万8000人のエピソード全てを知ることはできないので、じゃあどうしようというときに、やはり地元で起きたことは地元の人間が伝えていくしかないと思っています。外の力に頼るんじゃなくて、そのときを経験した人間が自分の経験を、つらいことですけど話していく。それで1万8000分の1が、2になり3になって分子が増えていく。そうやって残っていくものがあるんじゃないかと思っています。

 私自身もなかなか人に伝える機会はないんですけれど、いわき、福島、東日本の災害のことを知ってもらうきっかけのツールとして、娘のハンカチが役に立ってくれたらありがたいなと思っています。きょうはありがとうございました。

姫花さんの絵や写真、作文などが並ぶ、いわき震災伝承みらい館の企画展

 【筆者注】鈴木姫花さんのハンカチは塩屋埼灯台に近い土産物店でのみ売られています。通信販売や電話注文は受け付けていませんので、ご注意ください。いわき震災伝承みらい館(https://memorial-iwaki.com/)の姫花さんに関する企画展示は、3月21日(日)まで開かれています。

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