シンガーソング専業主婦、竹内まりやの本当の魅力は? 1980年 12月5日 竹内まりやのアルバム「Miss M」がリリースされた日

__リ・リ・リリッスン・エイティーズ ~ 80年代を聴き返す ~ Vol.15
竹内まりや / Miss M__

2アルバム発売がやたら多かった1980年

面白いことに、この「リ・リ・リリッスン」で取り上げてきた山下久美子、山下達郎、松任谷由実、まだ取り上げてないけどEPO、そのいずれもが、1980年に2枚のアルバムをリリースしています。シングルAB面にカバーを寄せ集めて「はい!アルバム」というアイドルなら分かりますが、基本10曲あれば10曲とも全力投球という「アルバム中心アーティスト」にとって年2枚は異例。

そこにこの人も加わります。竹内まりや。1980年3月5日に3rdアルバム『LOVE SONGS』、12月5日に4thアルバム『Miss M』をリリースしました。ひょっとして1980年という年には、人の創作意欲をかき立てるような何かがあったんでしょうか?

もっとも、竹内まりやの場合は、山下達郎と結婚して暫く休止するまでの5アルバムはすべて10ヶ月以内のインターバルでリリースしているので、たまたま80年に2枚が入ったということだろうけど。

竹内まりやの恵まれたスタート?

1977年の某日、当時ビクターのスタッフで、のちに松田聖子の「瑠璃色の地球」を作曲し、井上陽水の「少年時代」の作曲にも関わる「平井夏美」こと川原伸司氏が、慶応での後輩、杉真理のライブテープを、プロデューサーの牧村憲一氏に渡したことから、竹内まりやの歌手人生はスタートしたそうです。杉のバックで歌っていた彼女の声を、牧村さんは聴き逃さなかったのです。

1978年11月に、デビューアルバム『BEGINNING』をRVCよりリリース。RVCの制作担当は宮田茂樹氏。牧村さんも宮田さんもビジネスマン系プロデューサーとして日本のポップミュージックを支えてきた重鎮。このふたりの共同プロデュースならつまらないはずがないとは思いますが、お二人を多少存じ上げている私としては(あ、当時は知りませんが)、あの変わり者同士(失礼)がよくいっしょにやれたな、まりやさんはたいへんだったろうな、と現場の模様をこわごわ想像してしまったりします。ちなみにこの時期、二人は大貫妙子さんも共同でプロデュースしています。……なるほどー、でしょ。

ともかくそのせいか、1stアルバムから相当力が入っています。いきなりの海外レコーディング。4曲をロサンゼルスで、リー・リトナー(guitar)、ジム・ケルトナー(drums)、マイク・ポーカロ(bass)らの有名どころを投入しています。サックスのトム・スコットの名前も。この15年後なら1ドル=100円前後で、旅費やホテル代を含めても海外でレコーディングするほうが安くつくくらいになりますが、当時はまだ250円とか。私が1982年に初めてニューヨークに行った時、エアチケットがエコノミーで43万円もしたのですから。新人なのに、よく海外レコーディングなんかできたな、よほど期待されていたんだなと思います。

ただ、そのLA録音曲、いずれもサウンドはあまり面白くない。リー・リトナーやトム・スコットも名前を言われないと分からないくらい、別に他の人でもできそうな演奏です。このアルバムではB面に固められている、“センチメンタル・シティ・ロマンス” の告井延隆さんアレンジ、メンバー演奏のサウンドのほうが、曲を活かし歌を活かしていて、全然いい。

「Miss M」まで続いたLAレコーディングへのこだわり

これはいわゆる “箔付け”、“話題作り” に主眼があったのか、なんて穿って見てしまいますが、しかし、その後も4作目の『Miss M』まで、LA録音は続きます。くどいですが、日本でやるよりお金はかかったと思いますから、やはり、プロデュース・サイドか本人か、かなりの信念があったようですね(ただ、『Miss M』から牧村さんは離れています)。

2ndアルバム『UNIVERSITY STREET』はなぜか1曲だけLA録音ですが、3rd『LOVE SONGS』は5曲。やはりラス・カンケル(drums)、リーランド・スクラー(bass)といった一流どころを配しています。

そして、4th『Miss M』の海外メンバーはすごい。ちょうど同じ1980年に “Airplay” という名義でアルバムを発表したばかりのデイヴィッド・フォスター(David Foster)とジェイ・グレイドン(Jay Graydon)にアレンジを依頼、演奏は“TOTO”のメンバーであるジェフ・ポーカロ(drums)、デイヴィッド・ハンゲイト(bass)、スティーブ・ルカサー(guitar)らが担当しました。

デイヴィッド・フォスターがプロデューサーとしてヒットを量産し始めるのはまだこれから、TOTOはデビューして2年足らず、という時期ですから、このメンツのすごみはもう少しあとになってから増してくる。まりやさんの取り組みはとても早かったと言えます。

ともかく、当時はウエストコーストロックが大いに盛り上がっていました。女性シンガーもリンダ・ロンシュタット、リタ・クーリッジ、ニコレッタ・ラーソン、カーラ・ボノフらが、咲き乱れる花のように、音楽マーケットを彩っていました。

そんな中、登場した竹内まりや。彼女の歌唱は、カレン・カーペンターなんかを彷彿とさせる、伸びやかな声質と、自然でキュートな「コブシ」が魅力です。高校時代の留学経験もあって英語の発音もきれい。ウエストコーストの錚々たる女性シンガー群に、竹内まりやが並んでも遜色ないという自信と、その場所に立つことが彼女の存在感を高めることになるはずという確信が選ばせた戦略が、この継続的なLAレコーディングということだったんでしょうね。

竹内まりやの本当の魅力とは?

だけど、どうなんだろう。デビューアルバムのLA陣は名前だおれ(?)だったと言いましたが、その後のアルバムでも、私は、LA録音の成果がさほどプラスになっているとは思えません。『Miss M』の1曲目「Sweetest Music」のサウンドは、さすがAirplay+TOTOという感じで、特にドラムは「8ビートを叩かせたら世界一」のジェフ・ポーカロが素晴しいプレイを聴かせてくれますが、これなら別に竹内まりやでなくてもいいんじゃないかな、と思ってしまうんです。

彼女のよさと、LAサウンドのよさ、双方が活きている曲がどうもなさそう、というのが私の感想です。もちろん、どのアルバムも決して失敗作などと言うつもりはまったくなくて、それどころかどれも聴き応えのある佳作だと思っています。ただ、LAミュージシャンのビッグネームは別になくていい、むしろ余計な情報だなと私は感じるのです。

そこから離れて、彼女のソングライティング力の成長という面で見ると、『LOVE SONGS』収録の「待っているわ」がキラッと光っています。これもLA録音ですがLAらしさは特にありません。8分の6拍子のオーソドックスなロッカバラードですが、メロディに独特の味がある。こういうオーソドックスな形の中に何か “らしさ” を出せるのは、やはり才能だと思うんですよね。この路線はほどなく、アン・ルイスに提供した「リンダ」(1980年8月発売)で大きく開花します。翌81年の5th アルバム『PORTRAIT』でセルフカバーもしましたが、本人も、この曲でソングライターとしての自信を深めたのじゃないでしょうか。

制作と宣伝のすれ違いが生んだ? シンガーソング専業主婦

ところで、デビュー以来、これだけ洋楽志向、アーティストオリエンテッドな作品をリリースし続けていたのに、彼女はアイドル扱いされて、「芸能人運動会」的なテレビにも出演させられたりするのが嫌でたまらなかったそうです。渡辺プロダクションのような事務所にいた桑江知子だったらわかりますが、なんでそんなことに? と不思議です。制作サイドと宣伝サイドの思惑が全然違ったということなんでしょうか。

でもその悩みを相談しているうちに仲良くなった山下達郎と結婚し、日本唯一の「シンガーソング専業主婦」、かつ<プロモーション量>あたりの<売上枚数>の大きさダントツ1位の、誰もがうらやむポジションを獲得することになるのですから、やはり「人間万事塞翁が馬」ですね。なんてまとめちゃったりして。

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カタリベ: 福岡智彦

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