「最高のプロ野球人生とは言えない」元ヤクルト上田氏“フェンス恐怖症”の苦闘

昨季限りで現役を引退した上田剛史氏【写真:荒川祐史】

河田コーチから毎試合前ノックの嵐「打球を見ずに落下地点まで走れるようになった」

昨季限りで現役を引退した元ヤクルト外野手の上田剛史氏。YouTubeチャンネルを開設し、以前からアパレルに興味があったことからパーカーやTシャツをデザインするなど、32歳でセカンドキャリアを歩み始めているが、現役生活を振り返ると、「最高のプロ野球人生でした、とは言えないですね」と苦い思いも込み上げてくる。悔恨と歓喜の14年間を振り返る3回連載の第2回。

2006年高校生ドラフト3位で岡山・関西高からヤクルト入り。現役生活を通してレギュラーに定着することはできなかった。最大のチャンスは、6年目の2012年に訪れた。前年オフに兄貴分の青木宣親外野手が、ポスティングシステムを利用しメジャーへ移籍。その後釜の最有力候補として期待された。実際に「2番・中堅」で開幕スタメンに名を連ね、以後も2番もしくは1番で先発出場を続けた。

ところが、5月4日に本拠地・神宮球場で行われた広島戦で、飛球を追ってフェンスに激突し右肩を脱臼。1軍復帰まで3か月以上を要した。「僕としては、あれが全てだったと思います。以後、右肩の可動域が狭くなり、送球の勢いが自分本来のものではなくなりました」と痛恨の思いとともに振り返る。「当時はフェンス際のプレーが得意でなかった。今だったら、ああいうプレーは起きていないと思います」。最も深刻だったのは、このプレーをきっかけに「フェンス恐怖症」気味になったことだった。

とはいえ、“やられっ放し”では済まさなかった。2018年に河田雄祐氏が1軍外野守備走塁コーチに就任したのをきっかけに、格段に守備力が向上した。実は外野手にとって1番難しいのは、距離感をつかみにくい真正面の飛球だと言う。「河田さんがいらっしゃってからは、毎日試合前にレフト、センター、ライトの3つのポジションで、真正面にめちゃくちゃな量のノックを受けました」と振り返る。「お陰で、バッターが打った瞬間に、打球を見ずに落下地点まで走っていけるようになりました」。目で見なくとも打球やフェンスとの距離を測れるようになり、「それでフェンスが怖くなくなりました」とうなずく。

昨年5月4日には、神宮球場での広島戦で左邪飛を追いかけ、フェンスに右足裏のスパイクの歯を食い込ませて駆け上がるようにしてスーパーキャッチ。この時に足首を痛め、宮出ヘッドコーチに背負われて退場した。全ナインがベンチ前で出迎え、背負われたままの上田氏とハイタッチを交わす光景は感動的だった。

2015年のリーグ優勝が一番の思い出「野球人生で1番緊張した」

上田氏にプロ生活で最もうれしかったことを聞くと、「2015年のリーグ優勝です」と即答する。この年、82試合に出場し、そのうち40試合がスタメン。特にシーズン最終盤に先発出場が続いた。「野球人生で1番緊張した」と言うのが、9月27日に敵地・東京ドームで行われた巨人戦だ。ヤクルトはこの試合に勝てば優勝マジック「3」が点灯するが、対戦相手の巨人とのゲーム差はわずか「1」しかなかった。上田氏は「1番・中堅」でスタメン出場している。5回の攻撃で、先発投手の石川が自ら右前適時打を放ち先制。その直後、上田氏は1死一、三塁から二ゴロを打ち、俊足を飛ばして併殺を免れる間に、貴重な追加点をもたらした。ヤクルトは2-1で際どく勝利をつかんだのだった。

そして5日後の10月2日、本拠地・神宮球場での阪神戦で14年ぶりのリーグ制覇を決めた。1-1の同点で迎えた延長11回、雄平が右翼線へサヨナラ打を放った。上田氏は「1番・中堅」で出場し5打数1安打。上田氏にとってプロ生活唯一の優勝決定日は、くしくも27歳の誕生日でもあった。

14年間の現役生活を振り返り、「納得いくシーズン、個人的に今年は頑張ったと胸を張れるシーズンは1度もなかった」と悔やむ上田氏。もっとも、どんな大選手でも、現役引退する際には「ああすれば、もっといい成績を残せたのではないか」という後悔に苛まれるものだ。「一片の悔いもない」と言い切れる選手は極めて稀だろう。上田氏もこれからのセカンドキャリアの中で、現役生活で得たものの大きさを実感するに違いない。(宮脇広久 / Hirohisa Miyawaki)

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