DeNA:首位打者佐野の歩み(3)信念と努力で道開く

高校時代はキャッチャーにも取り組んだ佐野(右から2人目)(中井さん提供)

 広島の中心街からアストラムラインで約30分。最寄りの伴駅で下車して坂道を上がると、きれいに整備されたグラウンドが広がる。その脇には歴代OBの成績や名前が刻まれた石碑も並ぶ。

 春夏47度の甲子園に出場し、全国制覇3度、準優勝7度の広陵高に佐野恵太が進んだのは2010年春。親元を離れて寮生活を始めた。同期には中井哲之監督の長男惇一さんがおり、2学年上に有原航平(レンジャーズ)、一つ上には上原健太(日本ハム)がいた。

 「広陵は普通の選手が頑張り方を覚えるところ。恵太? 超ウルトラな中学生ではなかったし、本人の努力次第だと思っていた」。多くのプロを輩出してきた中井監督にとって、あくまでも教え子の一人だった。

◆1年秋から野手に転向

 175センチほどで足も特別速くはなかった。「投手として勝負できない」。持ち味の打撃を生かすため、1年秋から野手に転向しベンチ入り。広島大会で連覇を狙った2年夏は二塁手として出場も3回戦で敗退し、新チームでは副主将に就いた。

 「プロに行きたいんだったら捕手をやった方がいい」。強打と強肩を生かすために中井監督がコンバートを言い渡したが、「ワンバンを止めるのが下手で、ここぞという場面では後ろにこぼすのを恐れて直球のサインしか出さない。合わんかったんやろうね」。

 ただ、仲間からは一目置かれていた。主将で同部屋だった惇一さんは「厳しく言うタイプではなかったが、有無を言わせない練習量と打撃技術、野球で引っ張っていた」。テストでは出題傾向を踏まえ、要領よく得点を稼いでいたという。今でも覚えているのは冬のトレーニングのことだ。

 全体練習後は一度もバットを振らない。ウエート場にこもり、筋力トレーニングに精を出した。惇一さんは「誰一人、同じことをやるやつはいなかった。今みたいに情報が多い時代ではない中、柔軟に考えながらやっていたんでしょうね」。春以降、必然的に長打は増えていった。

◆最後の夏も3回戦で…

 「3番・捕手」として先発した最後の夏も3回戦で散った。「良いメンバーも集まっていたのに…。上も下も知っている限り、そんな代はない」(佐野)。大会通算8打数5安打4打点を記録したが、2年連続で早すぎる幕切れとなった。

 歴代OBのような華々しい活躍はできず、夢の甲子園出場も果たせなかった。「伝説という伝説が何一つ残っていないのが、佐野なんだろうな」

 中井監督は、佐野が入学当初から憧れの野村祐輔(広島)のように明大を目指していたことを思い返す。「最初は『バカが…』と思ったけど、夢は言い続けろと教えてきて、本当にかなえよったからな」。執念に押されるように、明大進学へのレールを敷いた。強い信念とたゆまぬ努力で、再び道を開いてみせた。

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