麥田俊一の偏愛的モード私観 第24話「モスキーノ」

MOSCHINO 2021SS PHOTO:(C)MOSCHINO

 時節柄、規則は破られるためにあると云う逆説的な言い回しを聞き入れるわけにはいかないが、時と場合によっては、それもまた真なりと肯きたくなる。誰が決めたのか判らないルールの場合は尚更だ。暗黙のルールに「?」を投げ掛けることから新たな道が広がることもある。パンデミックがファッション業界に迫った大きな変化に思うところがあるので、今回はその話。伊モード界の異端児と称されたフランコ・モスキーノ(1994年逝去)の、往時の個性的な視座について。取材当時はなかなか理解し辛かったこと(駆け出しの私には実感としてピンとこなかった)が、漸くいまスッと腑に落ちた。

 2020年は、ファッション業界はもとより、大きな変革を迫られた年だった。業界を俯瞰すれば、パンデミック以前より持ち越した課題の多くは、未だ解決の端緒を見出すことのないまま、パンデミックが新たに招き寄せる問題も少なくない。現代社会に於いては変化が常態となり、速さと新しさに絶対的な価値が与えられた。消費社会の深化と情報技術の革新(所謂ネット社会)は種々の境界をなくし、我々の生活様式や意志、感情、思考の伝達方法を根底より変容させてきた。云うに及ばず、ファッションはそうした速さと新しさを糧に成長を続けてきた。だが、恩恵を被るだけで、予防策を講じる暇を持たなかった業界は、新型コロナウイルスに見事に足元をさらわれてしまった。

 感染拡大防止策として、数多のショーはデジタル配信に置き換えられ、2021年もその傾向は続く。思いの外、動きは早かった。2020年上期には、「サンローラン」「グッチ」などのラグジュアリーブランドが、既存の公式日程(所謂パリコレやミラノコレ)には参加しないと明言(2021年春夏シーズンに限り)。従来のファッションウイークの日程より離脱し、独自の方法とブランドのタイミングに準じた時期に新作発表を行なう姿勢を示した。これまで安泰だった年に2回のショー形式の瓦解など、パンデミックがもたらした影響は様々あるが、旧態依然とした規範を見直す契機になったことだけは明らかである。従来ブランドは、マーチャンダイジング上、春夏、秋冬以外に、プレフォール、クルーズなど季節を更に細分化した商品群が必要とされてきたが、サステイナブルな視点から見るとそれが果たして真なのかと云う疑問が浮上している。既存のメカニズム(システム)に囚われず、過剰なパフォーマンスより離れ、本来のクリエーションを損なうリスクのある時間的制約から自らを解放することの必要性を、既に幾つかのブランドは明確に示唆している。新型コロナウイルスが、変革に大きく点火するキッカケとなり、デザイナーたちは自覚的に新たな波動を生み出そうとしている。これは新たな流れだ。

 さて、話は1990年代初頭に遡る。私は、ミラノでフランコ・モスキーノにインタビュー取材する機会を得た。そもそも彼のラジカルな思想に惹かれていたが、経験の浅い私には、正直、荷が重かった。俄の速記者の如く、通訳を介した彼の言葉を只管に書き留めた。フランコは1983年に「モスキーノ」を開始。翌年よりミラノコレクションに参加している。偶像破壊的で皮肉な視点を通した、ユーモアとエレガンスが共存する彼の考え方は、1990年代に入り、その異端児ぶりを発揮する。だが、創作の根底には、彼が折々で発する言動の過激さとは裏腹に、意外にも、時代とともに可能性が広がる普遍的なデザインがあった(これはいま改めて持つ感想であって、当時の駆け出しの私には知る由もなかった)。1990年代初頭に、彼は、「ストップ ザ ファッションシステム」と云う大きな主題を掲げた。即ち、「現在(=取材当時)のファッションシステムは、消費者に服を強要し、金儲けのために売りまくっている。そのために、消費者は知らずに『ファッションビクティム(ファッションの犠牲者)』となっている」と云うのだ。とりようによっては身も蓋もない意見であり、このパラドックスが、当時の私を悩ませた。

 前職を辞した時に私は過去の取材ノートを整理した。膨大な資料を捨てた。但し、廃棄し難いものは、暇に任せて複写するなどして一部を保管用に纏めた。だから、この稿はその記録と記憶をもとに書いている。記憶などは得てして曖昧なものだし、30年も前のことなら尚更、眉唾ものだよと云われるかも知れないが、当時の貴重な取材メモを読み返してみると、フランコが語っていた言葉は、一々、現況を云い当てていて、思わず得心した。これなら下手な脚色など弄せずとも充分だと思った。だから、以下に記すのは、彼が提唱した「ストップ ザ ファッションシステム」に関する幾つかのセンテンスを、能う限り意味を違えることなく本人の言葉に真似て再構成したものである。

 「ファッションは、個人の内に既にある精神性を強調する一つの要素だと私は考えている。だけれど、現在、ファッションはその精神性を殺してしまうような存在になってしまった。消費文化によってあまりにも強力にビジネスのメカニズムにされてしまったからだ。そのために(我々)デザイナーは服を、もっと美しいものを(或いは、もっと醜いものを)、もっと商品性のあるものを、決まった時期に発表することを強いられている。思索の時間も削られ、着想は薄まったままであったとて、必ず6ヶ月毎に創造性を提示することを強制されている。この性急さは、服を売る側にも云えることで、同じプロセスで矢継ぎ早に世に送り出された服は大きなビジネスを生む反面、文化を殺し、個性を蔑ろにしている。何故ならば、それはもうブランドを通して表現された個性に過ぎず、ブランドはマネーの同義語で、経済的権力の同義語だから、当然精神的なものは凡て、この過程の初期段階で既に死んでしまっている。勿論、私も毒されている。況してや、私はこのファッションシステムの最たる犠牲者でもある」。どうだろう。頗る皮肉的で、しかも気骨のあるアウトサイダー的な思想を30年も前に披瀝していたことに唯々驚かされる。だが、彼は思想だけで服を作っていたわけではない。彼のアルタモーダ(オートクチュールの伊語)的なモノ作りの正確さ、高度さには定評があった。基本を押さえているからこそ可能な美しさを兼ね備えた遊びのデザインが「モスキーノ」の真骨頂だった。

 最後に最新作(2021年春夏)に触れておきたい。創業デザイナーの衣鉢を継ぐジェレミー・スコット(2014―15年秋冬よりクリエーティブディレクターに就任。米国カンザスシティー生まれ)もまた、時節に鑑みてショーの代替としてデジタル配信を選んでいる。動画は極めてユニークだった。モデルの代わりにマリオネット(新作を巧妙にミニチュア化した服を纏っている)を、招待客の代わりに、通常は最前列に座る名士の面々(例えば、アナ・ウィンター等がソーシャルディスタンスを保って座っている)を模したミニチュア人形を使い、実際のショーを人形劇に置き換えたファルス(笑劇)として映像化した。パンデミックをシュールで、何処かリアル過ぎると捉えたジェレミー・スコットの、「新しいことを始めるには、小さな一歩から」と云う、暗黙の諒解を匂わせる洒落がピリっと効いた動画だった。(麥田俊一、ファッションジャーナリスト)

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