『旅する練習』乗代雄介著 人生の一回性を鮮やかに

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 同じ日は二度と来ない。そんな当たり前のことを、切なさや痛みとともに突き付けられる。ロードノベルに名作が多いのは、人生の本質である一回性を鮮やかに照らし出すからだと、本書『旅する練習』を読んで改めて気づいた。

 時は新型コロナウイルスが徐々に広がりつつある2020年早春。学校が休校になったサッカー大好き少女の亜美(あび)と、彼女の叔父で小説家の「私」が、千葉県我孫子市から茨城県鹿嶋市へ徒歩の旅に出る。

 利根川の堤防道を、亜美はサッカーボールを蹴りながら、つまりドリブルの「練習」をしながら進む。「私」は風景描写の「練習」のため、たびたび立ち止まる。「私」が書いている間、亜美はリフティングの「練習」をする。「私」から教わった不動明王の真言を唱えながら。

 「歩く、書く、蹴る」の繰り返し、「練習の旅」なのである。

 「嬉しそうに何度もうなずいて『いいねっ』と笑う亜美はボールさえ蹴っていればたいてい機嫌がいい。私が書いてさえいれば機嫌がいいのと同じように」

 2人は似た者同士で、気が合う。叔父と姪という“斜めの関係”が程良い距離感を保っていることも手伝って、旅の相棒として互いに心地良さそうだ。

 「私」が描写するのは、史跡や草花、鳥たち。「練習」としての描写がたびたび物語の中に挟まれる。瀧井孝作や田山花袋、柳田國男、安岡章太郎といった名前も出てきて、彼らの作品や文章が「私」の思考に交じる。

 そうした過去の文人たちの文を読んだからこそ「私」は書く。読むという営為と書くという営為はつながっている。小説家の「私」はおそらく、一生書く「練習」を続けるのであり、それこそが人生なのだと思えてくる。

 亜美は中学入学前の小学6年生で、早くも中学から「日記」の宿題が出ている。だから彼女も毎日書いている。彼女らしい文章で日々を記録しているのだ。

 この2人の旅に、卒業と就職を間近に控えた大学生のみどりさんが加わる。彼女は鹿島アントラーズのファンで、それはジーコの人間性にほれ込んだからだ。みどりさんによって紹介されるジーコの半生が物語に深みを増していく。

 亜美はみどりさんを慕うようになるが、控えめな性格のみどりさんは、自分にとっての「大切なこと」を見つけている2人と自分を比べて自己嫌悪に陥る。そんなみどりさんを、亜美が必死に応援する。

 飛び切り元気で明るく、ひたむきな亜美を、誰もがすぐに好きになるだろう。話すことも魅力的で、ユーモアもある。そんな亜美の美点が、この作品そのものの魅力の一つになっているのは間違いない。しかし「私」の語りには、時に不吉な予感のようなものが加わり、少しずつその濃さが増していく。特にカワウの死に出くわす場面でその予感が強まり、胸がざわざわしてくる。

 結末は衝撃的だが、それでもこの物語の向日性を損なうものではない。亜美と「私」、みどりさんの旅は永遠に輝きを失わないのだ。

 書くという営為は、一回性の生を乗り越える。だから私たちは、書いて残そうとするのだろう。本書を通して、旅という「練習」を通して、私たちはそのことを思い知る。

(講談社 1550円+税)=田村文