【藤田太陽連載コラム】空前の虎フィーバーの年、渡米して右肘を手術

佐藤義則コーチ(右)とは信頼関係があった

【藤田太陽「ライジング・サン」(19)】2003年は空前の虎フィーバーでした。星野阪神が18年ぶりのリーグ優勝を果たしました。僕はそのシーズンでは5試合に登板し1勝2敗。開幕ローテには入りましたが、5試合目で僕のシーズンは終わりました。

その5試合目はナゴヤドームで行われた中日戦でした。福留孝介さんにカーブだったかな、変化球を投げた瞬間、ヒジがパチンと鳴りました。

ベンチから佐藤義則投手コーチが飛び出してきてくれました。「これはもうあかんな」
となってそのまま降板です。ヨシさん(佐藤コーチ)には少しヒジがおかしいとは話していました。

ヨシさんの勧めてくれた名古屋の整体にも連れて行ってもらってました。「投げられるのなら投げろ」と言われていました。「痛いのは投手として普通のこと」だと。どうするかと聞かれて、僕は「投げたいです」と返事しました。ヨシさんと自分との信頼関係はしっかりありました。その面では後悔はありません。

ただ、結果として右ヒジの靱帯が剥離して部分断裂というけがを負うことになってしまいました。もう、右腕はブランという状態で力も入りませんでした。

病院に行くと保存療法で半年のリハビリを要すると診断されました。部分断裂なので患部を休めれば何とかできるんでしょうけど、登板が重なればまた同じ繰り返しになるリスクもあります。

自分が状態を一番理解していました。コーヒーを飲むマグカップすら握れないんです。手術させてほしいと球団に伝えました。6月に手術して1年半で戻れる。今では有名になった「トミー・ジョン手術」です。

当初は大阪で手術をする予定でした。ただ実際、阪神の選手が同様の手術をして復帰に成功した前例がなかったという事実もあり、嫌な感じを持っていたんです。

少年時代から巨人・桑田真澄さんにあこがれていました。せっかく手術をするなら、日本の先生も素晴らしいかもしれませんが、世界一の先生に執刀してほしいと希望しました。

そうしたところ球団からは「ノー」の回答。もちろん球団にも病院や担当医師の方々とのお付き合いもあるんでしょう。僕だけ勝手にアメリカに行かせるわけにはいかないということでした。

何度か、相談を重ねましたが、それなら全額自費で行きますと申し出ました。自分の体でヒジは命。なおかつ、自分自身の野球人生がうまくいっていないもどかしさもありました。もうシーズンは開幕しているのにまたメンバーから外れているわけですし。

この時の僕は、もうアメリカで手術を受けるしかないと強く思っていました。そして結果、渡米して手術することになりました。

当時、球団本部長だった竹田邦夫さんには「君の考え方を尊重するから、そうしなさい」と最後には許可していただきました。竹田さんは関西学院大時代にアメフトで甲子園ボウルに出場したほどのスポーツマンでした。最終的に僕の考えを受け入れてくれたことはありがたかったです。

手術も無事、成功し米・アリゾナで早速リハビリを開始しました。その現地で僕は自身にとっても、その後の球団にとっても大事な出会いを果たすことになります。

☆ふじた・たいよう 1979年11月1日、秋田県秋田市出身。秋田県立新屋高から川崎製鉄千葉を経て2000年ドラフト1位(逆指名)で阪神に入団。即戦力として期待を集めたが、右ヒジの故障に悩むなど在籍8年間で5勝。09年途中に西武にトレード移籍。10年には48試合で6勝3敗19ホールドと開花した。13年にヤクルトに移籍し同年限りで現役引退。20年12月8日付で社会人・ロキテクノ富山の監督に就任した。通算156試合、13勝14敗4セーブ、防御率4.07。

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