最も早かったレノン追悼シングル、ロキシー・ミュージック「ジェラス・ガイ」 1981年 2月 ロキシー・ミュージックのシングル「ジェラス・ガイ」が英国でリリースされた月

ジョン・レノン逝去後、最も早く世に出たトリビュートシングルは?

40年前の1981年2月、前年12月8日に亡くなったジョン・レノンへのトリビュートとして、ロキシー・ミュージックがジョンの1971年の曲「ジェラス・ガイ」をカヴァーし、シングルでリリースした。

同じ月にジョンの妻ヨーコ・オノが、生前のジョンが最後に手がけた彼女の曲「ウォーキング・オン・シン・アイス」を、やはりジョンへの追悼シングルとしてリリースしている。この2曲が、最も早く世に出たジョンへのトリビュートシングルではなかったか。

そして意外なことに、「ジェラス・ガイ」がシングルになったのはこれが初めてだったのである。

ブライアン・フェリー主導で進められた「ジェラス・ガイ」

当時のロキシー・ミュージックは1976年から78年の一時解散を経て再結成され、メンバーはブライアン・フェリー(ヴォーカル、キーボード)、フィル・マンザネラ(ギター)、アンディ・マッケイ(サックス)の3人であった。ジョン・レノンの逝去後その月末には早くも継続中のツアーで「ジェラス・ガイ」をカヴァー。それから2か月経たない内にシングルをリリースしている。

ブライアン・フェリーはソロで1976年にジョン作のビートルズナンバー「イッツ・オンリー・ラヴ」(1965年)をカヴァーしている。生前のジョンと直接の接点こそ無かったものの、いち早いトリビュートに無理はなかった。

プロデューサーはフェリーとレット・デイヴィス。この前後の年のアルバムではロキシー・ミュージックとデイヴィスのプロデュースだったが、この曲ではフェリー単独名義。このことからもこのカヴァーがフェリー主導で進められたことが分かる。MVもフェリーのワンショットが大半だ。

ロキシー・ミュージック唯一の全英ナンバー1

フェリーの力の抜けたふわりとしたヴォーカルは、繊細な「やきもち男」(王様のカヴァー時の邦題)の歌にマッチしていた。間奏でマンザネラのギターとマッケイのサックスのソロが入り、口笛が後奏で出てくるのが、間奏に口笛が入るオリジナルとの大きな違いだった。

「ジェラス・ガイ」はイギリスで1981年3月14日と21日付のチャートで1位を獲得する。ジョン・レノンが「ウーマン」で3曲めの全英No.1を獲ってから4週後のことだった。そしてこの曲はロキシー・ミュージック唯一の全英No.1ヒットにもなり、代表曲の仲間入りも果たした。翌年ロキシー・ミュージックは傑作の誉れ高き『アヴァロン』をリリースし、その歴史にひとまず終止符を打つのだが、「ジェラス・ガイ」もその端緒となったと考えるのは考え過ぎだろうか。

ソロになったブライアン・フェリーも、2000年代に再々結成したロキシー・ミュージックも「ジェラス・ガイ」を歌い続けている。1985年のライヴエイドでもフェリーが、ピンク・フロイドのデヴィッド・ギルモアのギターをバックに歌っている。

日本が最初にシングルカット、ジョン・レノンのオリジナル

「ジェラス・ガイ」は1971年のジョン・レノンのアルバム『イマジン』に収められた1曲で、実は当時シングルカットされていない。イギリスではアルバムタイトル曲すらカットされなかったし、アメリカでもシングルになったのはその「イマジン」だけだった。

ジョンの生前、遂にシングルにならなかった「ジェラス・ガイ」を逝去後、真っ先にシングルカットした国は、なんと他ならぬ我らが日本だったのである。

1981年5月5日、1974年のアルバム『心の壁、愛の橋(Walls And Bridges)』の1曲め「愛を生き抜こう」とのカップリングで「ジェラス・ガイ」のシングルが日本で東芝EMI(当時)からリリースされた。

ジョンのアルバム8枚を収めた『ジョン・レノン・ボックス』が6月5日にイギリスでリリースされ日本盤も出たので、その先行シングルといった意味合いもあったのかもしれない。しかしながらロキシー・ミュージックのシングルから3か月、当然その影響もあったと考えるのが自然だろう。

「ジェラス・ガイ」を広めた功労者はロシキー・ミュージック?

話はこれで終わらない。それから4年後の1985年11月、同名アルバムのプロモーションのために作られた『イマジン』がビデオ化されたのだが、それに合わせてイギリスでも18日に「ジェラス・ガイ」が初めてシングルカットされた。そのカップリングはなんと「愛を生きぬこう(Going Down On Love)」! 4年前の日本独自シングルと同じだったのだ。もはやその影響は疑う余地が無い。このシングルはイギリスで最高65位を記録している。

アメリカではさらに3年後の1988年9月19日に、ジョンの伝記映画『イマジン / ジョン・レノン』の公開に合わせて「ジェラス・ガイ」が初めてシングルになった。カップリングは日英とは異なり「平和を我らに(Give Peace a Chance)」。Billboard誌で最高80位を記録した。

「ジェラス・ガイ」が日英米でシングルになったのはいずれも’80年代のことだった。’70年代にもダニー・ハサウェイやフェイセズや沢田研二にもカヴァーされ、既に名曲たる評価は獲得していたであろうが、ジョンの逝去後、一層人口に膾炙するようになったのにはロキシー・ミュージックの功績が大であろう。そして東芝EMIもひと役買ったのではないだろうか。

最後に今年ならではの余談を。「ジェラス・ガイ」の収められたアルバム『イマジン』のプロデューサーはジョンとヨーコと、先日獄中で亡くなったフィル・スペクターであった。スペクターならではのウォール・オブ・サウンドは聞こえないが、名曲「ジェラス・ガイ」「イマジン」の陰にはスペクターもいたことは忘れないでおきたい。

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カタリベ: 宮木宣嗣

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