核兵器禁止条約が1月22日に発効した。ここに至るまでの道のりを見ると、核兵器と死刑はよく似た構造を持っていると、改めて感じた。
とっぴな発言と思われるかもしれないが、社会においてそれらの存在を支える理屈が似ているのだ。そしていまや、どちらも「正義」どころか、「必要悪」ですらなく、「絶対悪」とみなされつつあるという点でも、似通った立場に置かれている。(「死刑をなくそう市民会議」共同代表世話人=柳川朋毅)
言うまでもないことだが、人の命を奪うことは「善い」ことか、それとも「悪い」ことかと問われたら、基本的にほとんどの人が「悪い」ことだと答えるだろう。
ところが日本においては、死刑をやむを得ない刑罰、つまり「必要悪」とみなして支持する意見が根強い。あるいはもっと肯定的に、生命侵害に対し生命をもって償わせることで、「正義の回復」が果たせると信じる人も少なくない。また、被爆国の民として「核兵器」には反対する人が多いのに、歴代の政権は進んでアメリカの「核の傘」に頼り続けている。
しかし、こうした感覚や考え方は、時代遅れになりつつある。カトリック教会の総本山であるバチカンと国際社会の関わりを、カトリック信者として見守ってきた立場から、核兵器と死刑に対する近年の世界の動きを読み解きたい。
まず核兵器の方から見てみよう。
国家としてのバチカンは、17年に国連で採択された核兵器禁止条約に、最初に署名・批准した国のひとつである。そして条約の発効へ向かう過程においても、大いに貢献してきた。例を挙げる。
19年11月に来日した教皇フランシスコは、被爆地である長崎と広島を訪れ、核廃絶を求めるアピールを全世界に発信した。これは条約の早期発効に弾みを与えた。
かつて核兵器を製造し所持することは、国際的に合法だった。核兵器の使用をちらつかせて脅しても「抑止力」と呼ばれ、正当化された。それが自国の安全保障のみならず、国際平和に資すると考えられていた。
だが核兵器禁止条約によって、開発・実験・製造・取得・保有・貯蔵・移譲・使用のみならず、それによる威嚇をも禁じる国際的な枠組みが成立した。核の抑止力は否定されたのだ。
17年にノーベル平和賞を受賞したICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)のベアトリス・フィン事務局長は繰り返し、かつて「力の象徴」だった核兵器は、持っているだけで不名誉な「恥の象徴」へと変わりつつあると述べている。
死刑はどうか。
死刑制度があることが、凶悪犯罪の抑止につながると、長く信じられてきた。死刑という威嚇によって犯罪行為を押しとどめ、市民の安全を守ることができるのだと。
つまり恐怖による人間の支配こそが、その本質であり、核兵器と同様に、死刑はその恐ろしさによって国家や人間を支配しようとしているのだ。
だが、核兵器禁止条約よりもずっと早く、既に1991年7月「市民的および政治的権利に関する国際規約の第2選択議定書」、いわゆる「死刑廃止条約」が発効した。それから30年を迎え、国際社会には、もはや死刑という極端な、かつ非人道的な刑罰に頼らずに、安全な社会を築くという常識が広く浸透している。
17年10月10日の「世界死刑廃止デー」に当たって、国連のアントニオ・グテレス事務総長は、あらゆる状況の死刑に反対するという立場を明確にした。被害者のためにも犯罪の抑止にもほとんど役に立っていない「野蛮な慣行」を続けているすべての国に対して、「死刑は21世紀にふさわしくない」と執行停止を呼びかけた。
人類にとって「正しい戦争」や「よい核兵器」が存在しないのと同様に、もはや「正義の殺人」も「よい死刑」も存在しないのだ。
現実に、世界では死刑制度を廃止したり、執行を停止したりする国が、陸続として絶えない。07年以降、国連は何度も死刑執行停止(モラトリアム)を決議してきた。昨年の決議には120カ国が賛成した。これまでずっと棄権を続けていた韓国も、昨年初めて賛成に転じた。だが、日本政府は一貫して反対票を投じている。
近年の歴代教皇は折に触れて死刑廃止を訴えてきたが、教皇フランシスコはその主張を具体的に強め、18年にはカトリック教会の教えの公式解説書『カテキズム』を改訂した。死刑を一部容認しているともとれる文言を修正し、「死刑は許容できない」と明記するとともに、全世界で死刑が廃止されるよう取り組むという教会の決意をも記したのだ。
それより前の15年9月24日、教皇フランシスコは米国を訪れ、教皇として初めて米議会上下両院合同会議で演説した。その中で死刑を「廃止することがもっとも良い方法である」と表明し、死刑廃止のために働くすべての人を励ました。
その演説を教皇の真後ろで聞いた人物がいる。当時の副大統領ジョー・バイデンその人である。バイデンは大統領選で、公約に「死刑廃止」を掲げた。そして、在任中に暗殺されたケネディ大統領に次ぎ、米国史上2人目のカトリックの大統領となった。その公約は、熱心に死刑廃止を訴え続ける教皇の姿勢と、無関係ではないと思う。
教皇の米議会演説の1週間後、15年9月30日にジョージア州で女性死刑囚、ケリー・ギッセンダーナーさんへの死刑が執行された。執行が間近に迫っていると知った教皇は、すぐさまジョージア州の恩赦仮釈放委員会に宛てて、死刑を回避するよう手紙を送ったが、止めることはできなかった。
19年11月25日、教皇フランシスコは日本の首相官邸で、政府高官や諸外国からの代表らを前に次のように語った。
「結局のところ、各国、各民族の文明というものは、その経済力によってではなく、困窮する人にどれだけ心を砕いているか、そして、命を生み、守る力があるかによって測られる」
くしくもその直後に全世界を襲ったコロナ禍にあって、この言葉の意味をもう一度、深くかみしめるべきだろう。私たちは困っている人に心を砕き、命を守ることができているのか。
医療従事者だけでなく、救える命を1人でも救おうと、文字通り命がけで働いている人々がいる。エッセンシャルワーカーと呼ばれる方々をはじめ、たとえ光が当てられることはなくとも、危険と隣り合わせの中で、それでも人々の命と暮らしのために懸命に働いている。
人の命の尊さが痛切に感じられるいま、人の命を奪う刑罰のグロテスクさもまた、くっきりと濃い影を、私たちの社会に落としている。
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やながわ・ともき 85年東京生まれ、イエズス会社会司牧センター職員。日本カトリック正義と平和協議会「死刑廃止を求める部会」事務局、「死刑を止めよう」宗教者ネットワーク副代表などを務め、死刑廃止のための活動に取り組む。