【藤田太陽連載コラム】「きれいに投げようとするな」矢野さんに言われ復帰初白星

矢野の助言で白星

【藤田太陽「ライジング・サン」(21)】プロ3年目の2003年6月にトミー・ジョン手術を受け、長いリハビリ生活が始まりました。

二軍練習にも参加しますが、陸上部のような毎日です。家にいてもイライラしてしまいます。今思えば現実逃避してお酒に頼る自分もいました。いろんな重圧から逃げていたんでしょうね。23歳の自分は本当に子供でした。

人間としてもとがってましたねぇ。周囲の人間をみんな敵だと思ってしまってましたから。そんな中で03年に結婚して、奥さんの存在があったことは大きかったです。現在はSNSなんかで家族の存在を明かしたりすることもありますが、もともとは生活感を出さないタイプ。帰る家があったことで助かりました。

当時からあまり選手同士でつるんでというタイプでもなかったのですが、あのころは同級生の中谷仁(現智弁和歌山高監督)や、金沢健人(元阪神、ソフトバンク)さんらに話を聞いてもらった記憶があります。04年シーズンをほぼリハビリに費やし、05年キャンプ、オープン戦を乗り切り開幕ローテの座をつかむことになります。

05年は初登板の4月6日、広島戦で5回2失点。プロ初勝利の思い出の地で手術明け初白星をつかみました。でも、その時は全然、ヒジなんてなじんでなかったですね。高めの直球で空振りとか取れていましたけど、自分の投球ではなかった。

あの試合では4回、捕手の矢野さんがピンチでマウンドに来てくれたんです。「きれいに投げようとするな。その感情がお前の弱い部分や。思い切って俺を信用して投げてこい。手術してお前はここに帰ってくることを思ってリハビリしてきたんやろ」。短い30秒ほどの時間でそう言われたんです。

「わかったか」と言われてうなずいて結局、その場面を抑えて白星。ベンチに帰ると「そういう気持ちが大事なんや」と改めて声を掛けてもらいました。

きれいにすべてうまくやろうと、そんなレベルでもないのに。それなら全開でいかないと。それまで矢野さんとはまともに話したこともなかったですが、これが矢野さんとの初めての会話だったと思います。

自分は幼稚でした。自分の野球観とかと理想ばかりを求めて、現実が見えてなかった。そうやって僕は失敗を繰り返し、大事な時間をロスしてしまった。指導者となった現在は自分の失敗が引き出しになってくれていますが、当時は自分を客観的に見ることができなかったんです。

岡田監督には「お前は普通にやったらできるんよ」と言われていました。二軍でプレーしているのも二軍監督として見てくれていた。食事にも何度か誘っていただいて、本当に気さくないいお父さんという印象でした。その半面、野球に関しての視点の細かさには感心させられました。

いろんな人々に支えられ05、06年あたりのシーズンを確実に過ごしてきたのですが、実は僕はこのころの一軍での記憶があまりはっきりしません。二軍での思い出ばかりなんです。この時期、僕はどんな状態だったのか。今振り返れば理解できるんですが、特殊な心理状況でプレーし、心に限界がきていました。次回はそんな話をしたいと思います。

☆ふじた・たいよう 1979年11月1日、秋田県秋田市出身。秋田県立新屋高から川崎製鉄千葉を経て2000年ドラフト1位(逆指名)で阪神に入団。即戦力として期待を集めたが、右ヒジの故障に悩むなど在籍8年間で5勝。09年途中に西武にトレード移籍。10年には48試合で6勝3敗19ホールドと開花した。13年にヤクルトに移籍し同年限りで現役引退。20年12月8日付で社会人・ロキテクノ富山の監督に就任した。通算156試合、13勝14敗4セーブ、防御率4.07。

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