精神科医に聞く、仕事で“完璧な社会人”を求められる息苦しさから抜け出す方法は?

ネットやスマホが登場し、私たちは昭和とは比較にならないほど快適で、「健康的で清潔で、道徳的な秩序のある社会」を生きています。しかしその分、「完璧」を求められる社会に適応しなければならないという新たな負荷が増していると、精神科医の熊代亨さんは著書『健康的で清潔で、道徳的な秩序のある社会の不自由さについて』で指摘します。

令和の社会で、結果を出し、家庭も会社も両立し、いつも明るく元気で「完璧な社会人」を求められるビジネスパーソンの困難について伺いました。


「会社」にとって「人間」は手段でしかない?

――今、多くのビジネスパーソンが抱える切実な問題は、数字に追われていることだと思います。PDCA※サイクルを回していくことはビジネスの基本で、なおかつその回転は速いほどよいとされています。ただこの「常識」は人を疲弊させ、病ませているようにも思うのですが……。
※Plan<計画>→ Do<実行>→ Check<評価>→ Act<改善>

熊代: 数字を追うことは、「会社のため」にはなるけれど、「人のため」のやり方でないことは間違いないでしょう。資本主義のロジックで動き続ける株式会社などは、お金を吸い込んで膨張し続けなければならない生命みたいなものですよね。最初は経営者の使命感や理念などを軸に経済活動をしていても、ある次元を超えると会社が自己資本を膨張させることが自己目的化してくる。人間はその手段であって、目的ではありません。だから人間がいくら干からびても「そんなの知ったこっちゃない」となっていくのが、自己増殖する会社の本性ではないでしょうか。

手綱をつけて、会社の首根っこを捕まえておいて何か枠付けをしておかないと、会社が資本主義のお化けになっていくのを防ぎようがないような気がするんですよ。

――部下を育てるという観点でも、数値を伸ばすことを目的として教育するのと、クオリティだとか社会的意義とか、その人自身の成長のために教育するのでは内容が変わってしまいます。

熊代: 短期的に見れば確かに数字は上がるかもしれませんが、長期的に見て人材や結果を出していけるようなアウトプットになるのかわかりませんよね。

マネジメントの立場だっていろいろで、とにかくその場で数字を出すことを求められる場合は当然あるでしょうし、ひとまず数字のことは意識しないで、社員の成長やチームワークを意識しながらリーダーシップを発揮しなければいけない場面もあると思うんですよ。けれど結局、会社の余裕がないと数字を追わざるを得ない。嫌になっちゃいますよね。

今は大学教育も、数字を出せる、仕事に就いてお金を儲ける戦士になるための教育に傾いていると思います。

――会社のカラーがベンチャー寄りになるほどその傾向は強くなっていきます。

熊代: ベンチャーの場合、資本主義の世界のど真ん中で、元手の少ない状態から這い上がっていこうというわけですから、資本主義の勝負の原理を一身に浴びながら活動せざるを得ない。そうなれば、資本主義の良い部分、頑張って成果が出ればお金が得られる、または地位が得られるといった部分と引き換えに、悪い部分、数字にこだわって勝ち抜いていかねばならないし、「負けても後は知らんよ」というのが最も色濃く出ている界隈だと思います。

――株・売上を公開している企業は、決算書を出す半年や3カ月といった短期間で評価を下します。そのため経営者のスタンスが末端の社員まで影響していて、とにかく「速く」結果を出さなければならず、社員は凄まじいプレッシャーを感じながら働いています。

熊代: 末端の人間までが、次の決算の時までに数字を揃えるというロジックで動き続けなければならないというのがベンチャーなのだとしたら、人間を休ませずに働かせるロジックが一番強く働いている場なのかもしれませんね。

出産や子育てをリスクと感じてしまう社会

――本の中でも「リスクとしての子育て、少子化という帰結」の章では、子育てや出産をリスクと捉えてしまうようになった社会について書かれていましたが、今日のお話からしても、仕事と出産・子育てを両立するのは、女性に限らず困難だと思いました。

熊代: 市場原理が優先される社会が求める労働者のあり方は、「ひたすら機械のように働き続けて、効率をまっすぐ追いかけて、しかも故障しない」のような姿ではないでしょうか。つまり、女性に妊娠・子育てなどという生産性が下がるプロセスはない方がいいに決まっているんです。子育てや出産、さらにいえばメンタルヘルスの調子が悪くなるといった人間に備わっている面倒くさい生理機能を全部取っ払いたいのです。

――ということは、会社のルールや資本主義が内面化されていればいるほど、子どもを産み育てることをリスク視してしまい、産休・育休などの制度を使うことにも罪悪感を感じてしまうことになりますね。

熊代: 「家庭や共同体や社会からインストールされ、内面化された『かくありたい』と思っているものや『かくあらねばならない』と思っているもので構成された『こころ』の機能」を「超自我」と呼びます。今時の女性は、女性だからといってキャリアを追いかけないわけにいかないし、家庭や子育の要素も意識しなければいけないといった「スーパーウーマン」的な「超自我」をかたちづくられがちです。それなのに、実際には女性のキャリアはそんなことをできるように設計されていない。年齢的にもそうだし、男性の方が出世を優先させやすいという格差もある。個々の女性の人にとってはずいぶん大変な社会になっていると思うし、これでは少子化なんて止まるわけがない。社会としておかしいんですよ。

――令和の日本社会では、皆が「19世紀ヨーロッパのブルジョワ」のような洗練された生活スタイルを目指しており、それは、家事や教育のアウトシーシングなしでは成り立たないと書かれています。このくだりを読んで、「家庭と仕事を外注なしで両立することはできなくて当然だったんだ!」と、驚き、気持ちが楽になりました。

熊代: そんな世の中がもう出来上がってしまっているんですよね。

実力主義か年功序列か、どちらを選ぶのが正解?

――実力主義の企業で働くのが大変で、出産・子育てと両立しにくいならば、年功序列型の旧来の日本企業に行けば、働くしんどさが解決するかというと、そうとも言い切れない部分もありますよね。世代間格差に苦しめられたり、保守的なので新しいことにもチャレンジしにくかったり、いまだに旧来のジェンダー観が幅を利かせていたりすることもあり、それはそれで、組織の論理の中でうまくやっていくためにさまざまなコストがかかります。

熊代: そのようなお悩みはとても理解できます。

年功序列のような保守的なものからの抑圧で悩んでしまうのは、私ぐらいの世代(1975年生まれ)にもよくありがちなものでした。それが、平成から令和にかけて解決されて、良かった部分もあるけれども大変になってしまった部分もたくさんあるのではないか、というのが『健康的で清潔で、道徳的な秩序のある社会の不自由さについて』の主旨なんです。

――その移行の過程で、人材の評価軸が混乱しているのも職場選びの際の悩ましさです。実際の職場では、きれいに年功序列と実力主義が分かれるかと言えば、そうではない。たとえば比較的保守的とされる大企業ですら早期退職を募ったりと、競争原理の厳しさにさらされています。また、ベンチャー界隈で実力主義評価が徹底されているかといえば、そうとも言えない事例も多いです。

熊代: 実力主義評価の仕組みが公正でないならば、それは搾取ではないのか?と私の目には見えてしまいます。

ただ一方で、年功序列にかかる働いた分の評価というも、簡単にできるものなのか私にはよく分からなくて。「この人は月収うん万円相当を働いたので経営者は月収うん万円を三井住友銀行に振り込んでください」みたいに神様の声が空から降ってくるようなシステムがあれば、みんな納得するかもしれませんが、実際は経営陣がそれを決めざるを得ないわけじゃないですか。どうすればいいんでしょうね。

人は二つの軸で評価されている?

――結局、会社が評価する「実力」ってなんだろうと考えると、単純に実務作業や頭脳に関係ないものが含まれている気がしますよね。それは、ベンチャー寄り・保守寄り問わず暗黙のうちに重要視されている気がします。

熊代: 本当はそうなんです。筆記試験の点数に現れてこない、人間が社会の中で生き延びるための「隠しスキル」みたいなものがあって、これが上手な人は確実にいます。それは「嫌われない力」とも言えるかもしれないし、「政治力」や「調整力」という言い方もできるかもしれません。

就活やAO入試が、単純に学力や勉強した内容だけの競争ではないことからも、実は社会や企業もそういった能力の高い人材を求め続けているんじゃないかという読みはできますね。社会人は、実際は2つの軸で評価されていると言えそうです。

――立場が上がっていくごとに、暗にそういった「調整力」的なものが期待されるのではないでしょうか。あるいは、そういった能力が突出している人が出世しやすいとも言えそうです。

熊代: そうなんです。昔よりも今の社会のほうがいろいろ自由になったり、人づきあいの流動性も高くなりましたよね。それでよかったこともたくさんある半面、調整力の鬼みたいな人が世に憚っちゃって、調整力が低い人は、嫌なことを渋々我慢しながらやるしかないとか、自分の主張を通すことができないみたいなことになるとしたら、調整力の鬼にどうやって立ち向かえばいいのか分かりませんよね。

――会社が調整力やバランス感覚の高い人材を求めすぎるあまり、実力は高いのにそれらの能力が低い人が疎外されてしまうことも多いです。

熊代: 確かにリーダーシップの一部としてそういうポテンシャルを持っている人が必要だというのは理解できるんですけれども、じゃあそれらが標準装備になっていなかったら「使いにくい人材」とレッテルを貼られるのは息苦しいことですね。

発達障害の診断はなぜ増えた?

――調整力やバランス感覚が重要視される社会では、発達障害的な特性が強い人は活躍しにくいと言えますね。

熊代: そうですね。発達障害の方は調整力や政治力の部分がたいてい弱い傾向にあるので、現代の社会では「使いにくい」と思われてしまいがちで、就職も多分不利になりやすい人たちだと思います。

――発達障害が「発見」され、「医療化」されたとう内容もご著書に書かれていますよね。

熊代: 今時は昔に比べて、求められるコミュニケーション能力の水準が高くなってきましたから、昔よりも簡単に、「あなたはちょっと発達障害っぽいから何とかしてもらったほうがいいよ」と言われやすくなっているはずです。先進国では軒並みこの20年くらいで発達障害の診断率は高くなっていますが、生物学的にはそんなことはあり得ないので、これはやっぱり社会の側で発達障害と診断しなければならないニーズが高まっているからだと私は理解しています。

――うつ病も増えていますが、同様に診断しなければならないニーズの増加が背景でしょうか?

熊代: 確かに患者統計を見ると増えてはいますが、理由ははっきりとわからないんですよ。

早期発見・早期治療が行き届いて、昔だったら放置されていた人が医療につながったから患者さんが増えたのか。あるいは、会社が新自由主義的になってきて、疲れて病院に来なければいけなくなる人が増えたのか。それとも、会社でも私生活でも、感情が落ち込んでいるとか不安定になっているということを、私たち自身が我慢できなくなって、それを「病気」とみなさざるを得ないような文化風土へと移行したためのかーー結論づけるのが難しい。

いつでもご機嫌生産性マックス人間が理想の人間像?

――確かに、落ち込んでいたりモチベーションが下がっていたりすると、それまで通りのパフォーマンスができなくなってしまいますから困りますね。

熊代: そうそう。それだけじゃないんですよ。落ち込んだりイライラしている人がいたりすることで周りの人も嫌な気分になるとしたら、その人のパフォーマンスだけではなくて、職場のパフォーマンスにも影響が出るかもしれないじゃないですか。

生産性を高めなければならないという経済重視の思想から考えると、常に会社では明るく機嫌よく、みんながいい気持ちになれるような振る舞いをするのが道理にかなっているわけで、そうなると、それができなくなった人から、「いつでもにこやかに働ける生産的な個人であるように、ちょっと病院行ってメンテナンスしてもらって来い!」というディストピア(反理想郷)はもうここまで来ていると思うんですよ。

――本でも語られてますが、精神医療や福祉も、資本主義社会から脱落しかけている人(生産性がなくなっている人)を、元に戻すために機能しているという構造になっているんですね。

熊代: 表向き、精神医療の理念は「会社でニコニコ働いて生産性マックスの人間をメンテしよう」とは言っていないんですよ。だけど結果として、経済的に自立してない人を経済的に自立させていくことが医療や福祉の目標というか、実際に行っていることを見ていると、そうなんじゃないの?って疑いたくなりますよね。社会に貢献する仕事をしているとは思うんですけれど、ありのままの人間性を肯定するという意味とは違いますよね、きっと。

――福祉や精神医療は生きづらい人たちの大きな支えになっていると思うのですが、それはあくまで今の社会の理屈の内側で生きていくことが前提なんですね。

熊代: 「外側に出してあげる」ではなくて、このシステムの中でなんとかやっていきましょうという支援ですね。私はそれでもいいと思うけれども、精神医療や福祉の従事者たちは、そうだとはっきり意識するべきだと思います。「ありのままの人を許し、自由にするのが精神医療と福祉です」ではなく、「私たちは、あくまでも社会の仕組みの内側の一員として生きるためのお手伝をしています」という面構えは持っていてもいいと思いますけどね。

結局、今の息苦しい仕組みの世界から逃げられないならば

――最後に、働きながら自分を守るためのアドバイスをいただけますか。

熊代: 個人のレベルでいうなら、数字を気にしろだとかスーパーウーマンになれといった、いろいろな要請から距離を取ることではないでしょうか。飲み込まれすぎないようにする事、信じ込みすぎないようにすることとも言えますかね。

これまでの「常識」を疑ったうえで、それこそ首尾よく「ラク」や「ズル」をしているように見える人がいたら、見習ってみるのもアリじゃないかと思ってしまったりもしますね。「うまく『ズル』をキメる」というと語弊がありますが、(もちろん合法的に)産休や育休といった権利や制度を利用することを躊躇しないこと、そして、文句を言われにくい大義名分を作ることをもっと意識してもいいのかなと。それは、今の社会に対するささやかな反逆でもありますから。

――会社に合わせて数字をあげまくることが常識であり良識だと、誰もが信じてやまなかったけれどーー。

熊代: 今となってはそれだけでは人は幸せになれない状況になってきていると思うんですよ。

思い込みを変えることは難しいでしょう。ただ、数字を追いかけていくことで、私たちが人間性をどんどんほったらかしにしているということは、もっと知られてもいいと思うんです。そのためのチャンネルをもっとたくさんの人が共有して、もうちょっと人間に優しい仕事と社会のあり方を取り戻していくことを、考えていかなければならないのではないかと思います。

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現代人が課せられる「まともな人間の条件」の背後にあるもの。 生活を快適にし、高度に発展した都市を成り立たせ、前時代の不自由から解放した社会通念は、同時に私たちを疎外しつつある。メンタルヘルス・健康・少子化・清潔・空間設計・コミュニケーションを軸に、令和時代ならではの「生きづらさ」を読み解く。

取材協力

熊代亨(くましろ・とおる)

1975年生まれ。信州大学医学部卒業。精神科医。 ブログ『シロクマの屑籠』にて現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信し続けている。 著書は『ロスジェネ心理学』(花伝社)、『「若作りうつ」社会』(講談社現代新書)、『健康的で 清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など多数。

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