2004年12月26日朝、インドネシア・スマトラ島北端アチェ州の漁村を 高さ5メートル超の津波が襲った。スマトラ沖地震が引き起こし、インド洋沿岸諸国で22万人以上が死亡・行方不明となった大津波は、世界の津波災害の中で最悪規模と言われる。
あの日から16年が過ぎた今、津波で母親ときょうだい3人を失った村出身の男性が悲しみの淵から立ち直り、かつて跡形もなくなった自宅の敷地内で経済的に恵まれない地元漁師の子ども向け無料塾の運営を続けている。(共同通信=岡田健太郎)
▽笑顔
塾を運営する財団「アチェの光」の創設者アズウィル・ナザルさん(38)。「自分が助かったのは、人の役に立つためだ」との思いで、新型コロナウイルス感染拡大の影響を受けながらも奮闘している。
州都バンダアチェから車で約30分のランバダロク村。昨年12月上旬の夕方、のどかな漁村の一角にある塾に近所の子どもらが続々と集まってきた。アチェ州では同国で唯一、シャリア(イスラム法)が施行されているため保守的なイスラム教徒が多く、女子生徒は皆、髪を覆うスカーフ「ヒジャブ」を着けている。
「これは英語で何と言うかな?」。手書きのボードを手にしたボランティアの男子大学生(21)が、車座になった子ども18人に笑顔で問い掛ける。近くでは別のグループが真剣な表情で、イスラム教の聖典コーランを暗唱していた。
新型コロナ流行前は毎日授業があったが、現在は月―木曜日の夕方のみに制限。ほかにアラビア語、トルコ語、舞踊や絵画などのクラスがある。寄付金と無給の講師やスタッフ計約25人に支えられ、5~17歳の約100人が登録。30~40人ほどが毎回訪れる。
英語の授業に参加していたザルファさん(11)は「英語を学ぶのは楽しい。アラビア語とコーランも勉強しているの」と笑顔で話した。
▽弟のために
16年前の大津波当日。バンダアチェ市内にいて当時アラビア語を専攻する大学生だったアズウィルさんは友人とバイクで逃げてなんとか助かった。翌日、ランバダロク村に戻って見たのは跡形もなくなった故郷だった。
海岸から約1・5キロの自宅周辺には、高さ5・1メートルの津波が地震発生後25分で到達。走って逃げようとした母親と当時10~16歳の弟と妹3人は今も行方不明のままだ。8歳だった末弟だけが、流れてきたベッドにつかまって奇跡的に助かった。アズウィルさんによると、当時の村の人口約2200人中、助かったのは600人ほどだった。
末弟とは津波発生から数日後に避難所で再会した。再会した時「弟が笑ってくれたのが救いだった」。当初は悲しみの淵に沈んだが、ほかにも大勢の人が同じように家族を失っていた。幼い弟の「親代わりにならないと」と自らを奮い立たせ、「ほかの人の模範になろう」と誓った。一方で、「弟がいなかったらと思うと想像できない。どうなっていたか分からない」と率直に振り返る。その弟は、現在、バンダアチェの大学で政治学を学んでいる。
▽村から世界に
被災後、アズウィルさんは仕事を続けながら必死に勉学を続けた。
援助に来た非政府組織(NGO)や国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)で働き、08年に自宅を再建。国連開発計画(UNDP)の現地スタッフを務めた後、10~12年にジャカルタ近郊にある国立インドネシア大で政治コミュニケーション論を学び、修士号を取得した。13年からトルコ政府の奨学金で首都アンカラの名門ハジェテペ大で博士課程に在籍。研究活動と17年に設立した財団の運営でインドネシアとトルコを行き来している。
こうした自らの経験を踏まえ、アズウィルさんは教育の必要性を一貫して訴えている。村では働き手の9割が漁師で、仕事の忙しさと経済事情から教育に関心がない親が多いという。塾では親を啓発する講座も設けており、今後さらに塾を拡張、日本と連携して津波教育のための施設も作りたいと希望する。アズウィルさんは「子どもは夢を抱くのを恐れず、ここで外国語を学び、将来は世界に飛び出してほしい」と呼び掛けている。
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◇スマトラ沖地震 2004年12月26日、インドネシア・スマトラ島沖を震源に発生。米地質調査所によると、マグニチュード(M)9・1。大津波を引き起こし、死亡・行方不明者はアチェ州だけで16万人以上、スリランカやインド、タイ、アフリカ東部などインド洋沿岸諸国と合わせて22万人を超えた。日本人40人の死亡も確認された。