【藤田太陽連載コラム】ユニホームを着ると吐き気…当時は「うつ」だった

同級生の井川とはよく話し込んだ

【藤田太陽「ライジング・サン」(24)】2001年の入団から二軍暮らしが大半で、03年にトミー・ジョン手術。翌シーズンをリハビリに費やすというプロの滑り出しです。

思えばあのころは同級生でプロ入りでは3年先輩の井川慶とよく話しました。03年の星野阪神リーグ優勝の立役者です。シーズン20勝という素晴らしい結果を残した彼は、僕が入団したころにはもうプロの投手でした。

僕の1年目にあたる01年にはローテを守り防御率2・67で9勝。その後の活躍は皆さんの知る通りです。無口なイメージのある井川ですが、僕は世間の皆さんとは違う一面を知る一人です。

しっかり、きれいに投げようとする僕とは違い、井川は「俺はあんまり考えてないよ」と話していました。寮の部屋は真向かいだったし、本当に毎日一緒だったので部屋でもよく話し込みましたね。

井川からは「もっと適当に投げればいいのに。全部きっちりやりすぎだよ。そんなふうだと自分がしんどくなる。マウンドの上ではもうちょっとアバウトに、とまで言うと言い過ぎだけど、その方がまとまると思うよ」とアドバイスされましたね。

確かに僕はピッチングイコール完璧という意識が強いので、そこにボールがいかないとストレスがたまるという性格でした。自分のものにするまで時間はかかりましたが、のちにアドバイスを生かすことができました。

同級生といえば中谷仁(智弁和歌山高から1997年ドラフト1位、現在は同校監督)の存在も忘れられません。阪神から楽天、巨人と移籍を経験し、外に出てから視野が広がったなあと思って見ていました。

阪神のドラ1とは本当に特殊な状態です。阪神って「若手が育たない球団だ」とよく言われたりしますよね。実際、それはウソじゃないと思うんです。

僕自身、育てられたという感覚は正直持っていない。教わってはいるんですよ。野球というもので勝つためには、どうしなきゃいけないかはわかる。でも、どうすればそうなるかは教われない。やっぱり、それは先輩から盗んでいくしかなかった。

自分は不器用でした。人付き合いもうまくなかったです。夢だった日の丸をつけることもできた。ドラフト1位でプロ入りするという父との目標もかなえた。

でも、1年目はユニホームを着ると吐き気が止まらなかった。家を出て、球場に入ってユニホームを着ると「オエッ」となってしまって胸が詰まる。二軍ではならないのに。

今、振り返ってみると分かることなんですが当時は「うつ」の状態でした。そんな中で一軍での登板前に胸を押さえ「フーッ」と息を吐いてると「なんや、また緊張してんのか」と関西弁が飛んでくる。

僕が在籍した時代とは違い、野球自体も新しくなっているし、トレーナーさんたちの技術も進歩している。環境面は確実に進化しているはずです。メディアとの付き合い方なども含め、今の選手たちにはできうる限りのいい環境で野球に取り組んでもらいたいものです。

僕自身も自分の経験を若い選手たちとの接し方に生かしていきたいと思います。

☆ふじた・たいよう 1979年11月1日、秋田県秋田市出身。秋田県立新屋高から川崎製鉄千葉を経て2000年ドラフト1位(逆指名)で阪神に入団。即戦力として期待を集めたが、右ヒジの故障に悩むなど在籍8年間で5勝。09年途中に西武にトレード移籍。10年には48試合で6勝3敗19ホールドと開花した。13年にヤクルトに移籍し同年限りで現役引退。20年12月8日付で社会人・ロキテクノ富山の監督に就任した。通算156試合、13勝14敗4セーブ、防御率4.07。

© 株式会社東京スポーツ新聞社