バレーボール 朝長孝介 痛感した世界の本気 「教え子に立ってほしい場所」 【連載】日の丸を背負って 長崎のオリンピアン

「五輪は特別感があった。もう一度行きたい」と語る朝長=大村市、大村工高体育館

 2008年北京五輪。バレーボール男子日本代表は、1次リーグ5戦全敗の最下位に終わった。当時28歳のセッター朝長孝介は、ほろ苦い記憶を呼び覚ます。「今でも後悔が残っている。出場権を取ったところで満足して、きちんと準備をして臨めなかった。どこの国もピークを持ってきていて、世界の本気をすごく感じた」

■16年ぶり出場
 1992年バルセロナ以来、日本男子バレーは五輪の舞台から遠ざかっていた。朝長が代表入りしたのは2005年夏。植田辰哉監督からは「おまえたちが駄目だったら、日本の男子バレーは終わる」と言われていた。厳しい合宿を通してメンバーが絞り込まれる中、誰よりも「絶対に出場権を取る」と熱心に取り組んだ。
 世界最終予選は第4戦以降、スタメン入りした。「スパイカーが打ちやすいトス」をモットーに、センター線を多く使い、予選突破の立役者になった。MBの山村宏太や松本慶彦は同い年で気の合う仲間。「僕のお手柄みたいになっているけど、助けられている部分がある。気心が知れた関係はラッキーだった」
 大村市初のオリンピアンとして、地元でも祝福と激励を受けた。「生粋の大村っ子」は「自分たちが五輪に出ることで、バレーをする子どもたちが増えてほしい」という願いを胸に北京へ向かった。
 初戦からスタメンでトスを上げた。だが、大会直前に規格が変わったボールに苦しみ、連戦の疲れから体調も万全ではなかった。最も印象に残っている試合は「第3戦中国戦」。8強入りを懸けて落とせない試合は、圧倒的なアウェー感があった。「ブーイングの音源を流しながら練習してきたが、本番はものすごかった」。第1セット中盤以降はほとんど出番がなく、フルセットで惜敗した。
 「いろんな競技団体があって、勝つチームと負けるチームがあった。五輪で勝たないと駄目だとまざまざと感じた」

■指導者の道へ
 もともと選手人生の集大成と位置付けていた。帰国後は恩師の伊藤孝浩を目標に、指導者の道を歩み始めた。現在は母校の監督を務める。「立ちたい舞台」だった五輪は「1人でも多くの教え子に立ってほしい場所」に変わった。
 ユース日本代表コーチという一面もある。今を輝く石川祐希や柳田将洋、西田有志らもユースを通っており、若手の登竜門になっている。将来有望な選手を発掘していく上で、意識して「だめな時期があっても、最終的に五輪へ行きたいと思い続けて努力してほしい」と伝えている。途中から代表入りした自らの体験談を現場で継承している。
 今の日本代表は19年ワールドカップ4位と実力がある。強さの要因を「海外経験者が何人もいるのが大きい」と分析する。「個人的にはメダルも狙えると期待している。特に北京で一緒にやった福澤達哉と清水邦広には頑張ってほしい」。出る喜びも屈辱も味わった五輪。かつての戦友にメダルの夢を託し、楽しみに待っている。=敬称略=

 【略歴】ともなが・こうすけ 松原小3年で競技を始め、郡中3年で県選抜入り。大村工高3年時の神奈川国体で3位入賞した。筑波大では全日本大学選手権で3年連続ベストセッター賞。Vリーグ豊田合成に所属した2005年アジア選手権で優勝に貢献。06年に堺へ移籍、08年北京五輪に出場した。09年から保健体育教諭として長崎北高、13年から大村工高に勤務。大村市出身。40歳。

「五輪は特別感があった。もう一度行きたい」と語る朝長=大村市、大村工高体育館

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