【プロレス蔵出し写真館】“破壊王”がのっぺらぼうに! 橋本真也自ら語った「俺の履歴書」

のっぺらぼうに変身した橋本に後藤(左)も大笑い(1989年8月、宮城・泉)

プールサイドにたたずむ〝のっぺらぼう〟。それを見て大笑いの後藤達俊(左)とクスリと笑う佐野直喜(後に巧真=奥)。こののっぺらぼうの正体は?

この体型、どこからどう見ても〝破壊王〟橋本真也だ。

これは今から31年前の1989年8月30日、宮城・泉総合運動場の泉水泳プールでのひとコマ。この日、新日本プロレスは運動場にある体育館で試合があり、橋本らは試合前、水泳トレとばかりに泳ぎに来ていた。

カメラを向けると、サービス精神旺盛な橋本はスイムキャップをアゴまで伸ばし、のっぺらぼうに変身した。橋本の魅力は、このようにリングとリング外でメリハリがあったことだろう。

橋本の人気に火がついたのは、この年の4月24日、新日本プロレスが東京ドームに初進出した「’89格闘衛星☆闘強導夢」大会だった。

橋本は、IWGPヘビー級王座決定&闘強導夢杯争奪トーナメントの1回戦で長州をエビ固めで破る大金星を挙げた。続く2回戦ではソ連(当時)のビクトル・ザンギエフを古典的な足4の字固めで破り決勝へ進出すると、ビッグバン・ベイダーと真っ向勝負を展開した。惜敗したものの王者となったベイダーとの続編が期待された。

7月、日本定着の決まった橋本は、28日に開幕する「’89格闘衛星☆日米ソ3国対抗シリーズⅡ」の主要カードにベイダーとのシングルマッチが組まれたことを知ると、本紙に気迫のこもったデモンストレーションを披露したこともあった。上野毛の道場近くの多摩川河川敷に3個のコンクリートブロックを持参して試し割りに挑み、右手で見事に破壊して見せた。

8月8日、盛岡で行われたベイダーとの試合は橋本のフライングニールキックがベイダーの右目頭に直撃してドス黒く腫れ上がり、試合後に病院へ直行。橋本も顔面を殴られ、試合途中から記憶が飛ぶという壮絶な試合で、ベイダーのリングアウト勝ちに終わった。

橋本は9月21日、横浜でIWGP王座挑戦が決定。相手は、前日20日に行われるベイダーの防衛戦(VSクラッシャー・バンバン・ビガロ)の結果次第となった。この時、人気が急上昇した橋本に本紙は改めてインタビューを行い素顔に迫った。当時、橋本が語った記事を抜粋すると…。

子どものころは典型的なガキ大将。天真らんまんでちょっと下品。学校の成績? 聞かれたくない。国語、算数、理科、社会、英語以外は好きだった。特に体育は50メートルを6秒7。けんすいは30回はできた。

中学の時柔道で県(岐阜)で2位になって…。高校の時は団体戦の決勝でソウル五輪に出た岡田弘隆(バルセロナ五輪の銅メダリスト)とやって有効をひとつ取られて負けました。

趣味は電話。あと手紙を書くこと。そろばんと簿記の資格があるけど、今はできないよ。

好きなタイプの女の子? 有名人でいえば、中山美穂。

プロレス以外でなりたかった職業はタクシー運転手かトラック野郎。

などと語っていた。

その後の橋本は、マサ斎藤と組んだIWGPタッグ王座挑戦者決定リーグ戦で勝ち上がり、20日の大阪城ホールで長州力、飯塚孝之(後に高史)組に挑戦し、飯塚をフライングニールキックからDDTでフォールして見事ベルト初戴冠となった。

対戦相手がベイダーに決まった翌21日のIWGP戦は、ベイダーが先制の張り手、パンチに橋本がローキックからハイキックの連打で反撃。ベイダーのパンチ攻撃に橋本は鼻血を流し、最後はベイダーのパワースラムでフォール負け。試合後は観戦していたアントニオ猪木からビンタを浴びるという屈辱も味わった。

それでも橋本は、次世代のエース候補と感じさせるに十分な試合内容で、ファンに支持される存在になった。

まさか、10月に帰国する蝶野正洋とのタッグ対決で、ファンが暴動寸前の騒動を起こすことになろうとは…誰が想像できただろうか(敬称略)。

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