演者の思い、落語に彩り 夫婦の在り方、生きるとは 「芝浜」で考えた

 観客がまばらなホールなどで落語を聴いていると、新型コロナウイルスの怖さを実感する。健康被害はもちろんだが、大入りの会場で落語の世界に没入するというファンのささやかな喜びをも奪ってしまうからだ。東京都内の寄席は入場者数を座席数の半分に抑えるなどして対応しているが、3月中旬までの「休席」を決めたところもあり、状況は厳しい。(共同通信=八木良憲)

 2度目の緊急事態宣言が出されたのは、寒さが本格化する1月。いつもなら、火の用心の見回りの後、しし鍋をつつく描写に心も温まる「二番煎じ」などで季節感に浸れる時期なのに…。それでも昨年末には、定番中の定番「芝浜」を随所で堪能することができた。

 芝浜は、腕のいい魚屋と女房が主人公。酒が過ぎてしばらく商いを休んだ勝五郎が、魚を仕入れにやってきた江戸・芝の浜で大金入りの財布を拾うことから展開する。明治期の名人・三遊亭円朝の作とされ、戦後に三代目桂三木助が、魚河岸から見た朝日の描写などで芸術性を高めたといわれる。大みそかの夫婦の語らいで幕となるため、年の瀬によく演じられる。

 昨年11~12月、4人の芝浜を聴き、うち3人に工夫のしどころなどを聞かせてもらった。あらすじも、久々の酒を前にした勝五郎のオチのせりふ「また夢になるといけねえ」もおなじみ。それでも4回聴いたのは元演芸担当記者として、それぞれの持ち味や芸の変化を確認するという「仕事の一環」だったと言っておこう。だが聴くうちに改めて感じたことがある。「定番の落語でも演者によって印象はさまざま」。ではその違いはどこから来るのか? 人が違うから当たり前と、あまり気に留めてこなかったことをこの際、少し掘り下げてみようと思う。

 ▽柳家小里んさん

 東京・両国での独演会。落語家生活半世紀以上の柳家小里んさんのトリネタは芝浜だった。「ちょいとおまえさん、起きとくれよ」。いきなり話に入った。勝五郎は、女房に「このままでは釜のふたが開かない」とせっつかれて渋々河岸へ向かう。だが、勝五郎はすぐに帰ってきて、女房に革財布を見せながらてんまつを聞かせる。「河岸の描写」はなかった。

柳家小里んさん。鈴本演芸場前で=2020年12月4日、東京都台東区

 その後、勝五郎は女房に言われて、財布を拾ったのは「夢」だったと信じ込み、仕事に没頭して店を構えるまでに成功する。終盤、女房を前に「他人に(欠点や過ちを)言われてもなかなか気付かないが、自分で気付くことができれば、これは強い」と語る勝五郎のせりふが印象に残った。

 名場面を演じなかったわけを後日、聞いてみると「劇的にしたくなかった」「『普通の夫婦』でやりたかった」。

 小里んさんはこの話に、あまり魅力を感じてこなかったという。「美談過ぎるっていうか、それがちょっとね…」。三代目三木助の芝浜は「一つの美学。さっぱりしてて、墨絵を見ているよう」。でも芝居のような描写で劇的にし過ぎるのは、お客さんに演じ手の意見を押し付けることになるのではないか―。そんな思いから「普通の2人が動き回っている」ようにつくりあげたという。

 一度は金を使いたいと思った女房。でも怖くなって相談した大家さんに、お上に知れたら勝五郎は大変なことになると諭され、夫を案じて必死にうそをつく。河岸の描写を省いたのは「あそこを入れるとね、きれいな話にしていかないと(いけないから)」。勝五郎の「気付き」のせりふは、マイナスから懸命にはい上がった男の生きざまの表れだったのだ。

 ▽三遊亭遊三さん

 入門60年を超える三遊亭遊三さんは上野の独演会で「不動坊」をかけた後、トリで芝浜を演じた。江戸前の小魚を扱ったと芝の浜の説明をしてすぐ、女房が勝五郎を起こす場面を語り始めた。

お江戸上野広小路亭で古典落語を演じる三遊亭遊三さん=2020年11月21日、東京都台東区

 海から顔を出した太陽が「青いところ、だいだい、黒ずんだところ」と空を染めるさまを描いていく。その後の筋は小里んさんと同様だが、財布を家に持ち帰った勝五郎がごくごくと酒をあおる様子はとにかくうまそう。話し込むうちに夫婦は共に涙に暮れ、互いを思いやる気持ちが伝わってきた。会が終わって、そのまま一杯、というお客さんもいたことだろう。

 楽屋で話を聞くと、「これで2回目かな」という遊三さんの芝浜のベースは、かつて舞台の袖で聴いて覚えた三木助の芝浜だと教えてくれた。

三代目桂三木助。河岸に朝日が昇る場面の巧みな描写で「芝浜」を人気演目に押し上げた(1953年ごろ)

 浜の描写はまさに三木助譲りだ。遊三さんが考えるこの夫婦像は「旦那がえばってて、かみさんが支えて」という関係。だが財布を拾ったのは夢だったと思わせるシーンでは一転する。「今日言ったかどうか分からないけど『バカヤロー』とか言うんですよ。普段はそんなこと言わない。あの辺だけ、強めにね」

 この時は「バカヤロー」よりもさらにきつい言葉を勝五郎に浴びせていた。心を鬼にしないと夫は本当に駄目になるし、夢だと信じ込ませることもできない。遊三さんの描く女房は主体的に行動しているようだった。ちなみに遊三さん、酒は一滴も飲めないそうだ。

 ▽古今亭志ん輔さん

 ベテラン真打ち、古今亭志ん輔さんの芝浜は横浜でのトリの一席。話の始めに魚屋の人となりを詳述した。腕は良く、魚をさばくのもうまいが酒好きで、客の評判が良いことにてんぐになってしまう。酔いが回った状態で商いをするから鮮度の落ちた魚を売ってしまい、客が離れるとさらに酒に溺れる―。

 終演後、志ん輔さんは「昼酒の心地よさから仕事に差し障りが出るようになった経緯が分かると、その後の流れがお客さんに自然と入ってくる」との思いから、あのように始めたと話した。腕に覚えのある人にとって、客から苦情を言われるという失敗はこたえる、だから酒に逃れるようになる…。心の動きを細かく反映させてのことと知り、膝を打った。魚屋の名前は「勝」ではなく「熊」さん。師匠の志ん朝さんも「熊五郎」で演じていたようだ。

 結局、落語家一人一人の考えが違うから、それぞれの思いを反映して彩りが添えられて、同じ古典落語を聴いても印象が異なるのだと思い至る。それと、江戸時代と現代では社会情勢など違いは多くあるものの、互いを気遣い、少しでも充実した日々を送ろうとする夫婦の在り方はそれほど変わらないように感じた。

 個人的には話の終わりごろ、家の畳が張り替えられたのを知った勝五郎が「畳の新しいのと、かかあの…」と言った後、慌てて「古いのはいいなぁ」と続ける場面で、毎回ほっこり、にんまりする自分に気付いた。以前はそんなことはなかったはずだが、聴く度に「そうだろうな」と思うようになった。

 ▽柳家小はぜさん

 2月中旬にのぞいた二つ目の落語家、柳家小はぜさんの会(東京・町田)では、向島の梅見や花見が話題に上る「やかんなめ」「花見酒」が演じられ、季節を先取りした気分に。終演後、近くを歩いていると、民家の庭に梅とおぼしきピンクと白の花が咲いていた。先取りどころか、季節は変わりつつあったのだ。

 「長屋の花見」に「花見の仇討」と、春の落語もいろいろある。マスク越しでは「ムフフ」とくぐもった笑い声が漏れるばかりかもしれないが、演者が話に込めた思いを聴き手がそれぞれに受け取り、新たな気付きを楽しむ。安全に配慮しながら、そんな喜びを会場全体で共有したいと心から願う。

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