【連載】『令和2年度卒業記念特集』第28回 村山豪/男子バレーボール

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黙ってプレーしていただけの自分がチームの頭脳に

早大のバレーを見た人々は口をそろえてこう言う。「隙がない」。各世代のトッププレイヤーが集まり、その一人一人が高いポテンシャルを生かして組織として機能してきた。結果、今年度のチームは大学生相手の試合で1セットも落とすことなく幕を閉じた。そんなチームの頭脳を担ってきたのは、副将の村山豪(スポ=東京・駿台学園)。練習では後輩の指導を、試合では戦術の共有をしていた。だが「3年生まではただ黙ってプレーしていて、周りに気を配るというよりもマイペースなタイプだった」という。そんな村山の最後の1年、そして大学バレーを通して成長した姿に迫る。

高校3年時に3冠(総体、国体、春高バレー優勝)を達成し、期待の大型ルーキーとして早大バレー部に入部。しかしその実力は大学では通用しなかった。高さやパワー、ボールの重さやスピード、全てのレベルの高さに圧倒された。1年時の春季関東大学リーグ戦からミドルブロッカーとして出場機会を得るも、ブロックに付き遅れたり、今までなら決まっていたスパイクが決まらなかったりと、思い通りのプレーができないときもあった。

プレーに未熟さはあったものの、当時の4年生が引退してからは本格的にレギュラーメンバーとなる。「早稲田はセンター線を軸に攻めるチーム。自分の動きが悪くてレシーブがしにくくなったり、サイドだけのバレーになったりするのは嫌だった」。根本的なレベルアップのために必要なことは何かを考え、たどり着いたのが、ウエイトトレーニングだった。地道に鍛え筋力が付いてからは、ブロックの反応や動作速度、ジャンプ力が上がり、さらに強力なスパイクをシャットアウトできる力強さも増す。速さと高さのあるブロックとクイックを武器とするプレースタイルを確立し、大会でスパイク賞やブロック賞等、数々の個人賞を獲得するようになった。プレーはもちろん、周りを見る余裕も徐々に生まれる。だが「先輩から『周りが見えているんだし自分から意見してみれば』と言われていたが、ただ見ているだけだった」と村山。日ごろから、一人一人の武器や弱点、性格や考え方をくみ取る習慣があり、メンバーのプレーや言動に思うことはあった。だが自分からの発信やアドバイスを苦手としていた。バレーを始めてからずっと、それらを上級生や得意な人に任せ、ただマイペースに自分のプレーをこなしていた。

1年時から試合に出場する村山

最上級生になり、同期の勧めで副将を務める。明確な理由はなく「なんとなく」で主将、副将が決まった。4年生には、意見を発信し積極的にチームを引っ張るような人がいなかったからだ。「試合に出ている自分たち3人は面白いくらいしゃべらない(笑)」。しかし、主将の宮浦健人(スポ=熊本・鎮西)はエースとして背中で引っ張り、セッターの中村駿介(スポ=大阪・大塚)は攻撃面で重要な役割を担っている。チームをまとめる際は宮浦と助け合い、アドバイスや戦術の共有といった役割は、発信することを苦手とする二人の負担を減らすためにも、率先して行うようにした。

チームをまとめることには最も苦労した。高いレベルでプレーしてきたそれぞれが、しっかりとした自分なりの『バレー論』を持っているからだ。そのためメンバーからは良いアイデアが次々と出され、それらを組みこむことに難しさを感じた。だがそこで否定することはせず、実践を繰り返しチームにとってより良いプレーを模索した。「みんなすごいから、それぞれが自由にプレーしてもいいと思う。でも一人一人が組織として機能すれば、このチームはもっと強くなる」。

個々の高いポテンシャルを生かすべく、ブロックの付き方やレシーブの位置等の情報を共有し、村山を中心に隙のないシステムを作り上げた。だが、水町泰杜(スポ1=熊本・鎮西)と荒尾怜音(スポ1=熊本・鎮西)は高校と大学でのプレースタイルの大きなギャップに苦しみ、慣れるまでに時間がかかった。二人には積極的に指導し、悩んだり落ち込んだりした様子を見たときは相談にも乗った。チームの頭脳であり、周りへの気遣いを欠かさない村山には、学年を問わず大きな信頼が寄せられた。

新型コロナウイルスにより大会が次々と中止になるも、できることに全力で取り組んできた。10月には秋季関東大学リーグ戦の代替大会が開催されることに。ようやく試合ができるようになった。駒澤大との初戦をストレート勝利で収め、これから思う存分試合を楽しもうと思っていた。だが、その1週間後に早大が所属する1部リーグのチームでクラスターが発生し、中断を余儀なくされた。4年生、特に村山のショックは大きかった。下級生から第一線で活躍し、最上級生になってからは苦手なことも率先して行い、チームのためにひたすら走り続けてきたからだ。今までの努力は何だったのだろう。「このままじゃ全日本インカレ(全日本大学選手権)もなくなるかもしれない。大会があるなんて信じられないし、もう頑張れない」。4年生と松井泰二監督(平3人卒=千葉・八千代)の話し合いでは素直な思いをぶつけた。村山も他の4年生もみんな、悔し涙が止まらなかった。全日本インカレが開催されずとも悔いのない形で終わろうという話でまとまり、次の日の練習からは納得して踏ん張った。チームの前でつらい様子を決して見せることはなかったが、まだ心の整理はつかなかった。そんな村山の心の支えとなったのが、後輩からの声かけだ。「後輩たちは4年生を気遣ってくれていたのかな。『全日本インカレ頑張りましょう』『4年生ともっと試合がしたい』と直接言ってくれて、ものすごく救われた」。

全日本インカレで優勝し涙する村山(左)

万全な感染対策を講じ、何とか大会の開催が決まった。この大会にかける思いはこれまで以上に強かった。そこには「最初で最後の大会だから」以外のわけがあった。毎年、駿台学園時代のチームメイトもこの大会に出場している。しかし今年は、チーム内で感染者が複数人出た大学は出場を断念せざるを得なかった。高校時代苦楽を共にしてきた同期の土岐大陽(中大)や吉田裕亮(東京学芸大)もその一人であった。出場できなかった仲間の思いを背負って戦うことを心に誓い挑んだ。普段よりも強い思い入れを持ち臨んだ決戦。早大はストレート勝利を重ね、順調に優勝へと駒を進めた。決勝でも早大が試合の主導権を握る。セットカウント2-0で迎えたマッチポイント。主将の宮浦にサーブが回ってきた。「このサーブで決めてくれると確信していた」。大きくカーブした球ははじかれ、ポールへと当たり、サービスエースに。村山の目からは、バレー人生で初めてのうれし涙が溢れた。

早大に来てからの4年間、村山は「本当に人が違うくらい」大きな変化を遂げた。それは自主性を重んじる環境であったからだという。悩んだときや環境が大きく変わったとき、誰かが指示を出してくれたわけでもなく、答えを出すのはいつも自分だった。「考える習慣があったことで、プレーも上達したし、物事を冷静に俯瞰できるようになった。早稲田は自分を成長させてくれた場所だった」。早大を巣立った後、宮浦とともにVリーグのJTEKT-STINGS(Division1)でプレーすることが決まっている。ステージが上がる分競争は激化し、壁にぶつかることもあるかもしれない。しかし、考えることで常に自らをアップデートし続けてきた村山であれば、Vリーグやさらにその上の舞台で十分活躍できるはずだ。

(記事 西山綾乃 写真 藤原映乃氏、萩原怜那氏)