『羊は安らかに草を食み』宇佐美まこと著 過去と現在に向き合う旅

 老い、女性の友情、旅、戦争、家族、犯罪――いったい、この小説のテーマは何なんだ? ジャンルは? いや、そんなことはどうでもいい。切実なメッセージがさまざまに折り込まれ、読みだしたら止まらない。小説の面白さを堪能した。

 認知症で日々記憶を失い、施設に入ることが決まった86歳の益恵。80歳のアイと77歳の富士子は二十数年来の親友である彼女を「最後の旅」に連れ出すことになった。行く先は満州からの引揚者だった益恵がかつて暮らした大津、松山、長崎の離島。先々で関係者の話を聞くたびに、いつも陽気で前向きだった益恵の凄絶な過去が明らかになる。

 敗戦直後、満州にいた11歳の益恵は開拓団と共にソ連軍の侵攻から逃れて南下する。飢餓、極寒、暴行、略奪、集団自決。家族を失い、周りの日本人が次々倒れていく中で彼女は同い年の佳代と2人で時に奪い、時に助けられながら生き延びる。

 物語は過去をたどる女性3人の現在の旅と、未来を切り拓く少女2人の70数年前の逃避行が交互に描かれる。過去の断片に触れて心の奥底に封じ込めていた感情を解き放つ益恵。その変化に導かれるように、アイは自分の家族の問題に決着を付け、富士子も自らの運命を受け入れる。旅の終着点たる離島で過去と現在が結びつき、益恵が隠し続けてきた秘密が明かされる――。

 著者はもともとミステリーとホラーの分野で注目されてきた。緻密に張り巡らされた伏線の回収、謎の解明と驚きの結末は社会派ミステリーの系譜に属し、不安と恐怖のサバイバル行はホラーの要素を帯びている。

 しかし、この小説は過酷な体験を経た女性が過去と向き合うことによる解放のドラマであり、そこに立ち会った人間が自分の現在を正面から受け止める物語である。書名の「羊は安らかに草を食み」はバッハが領主の誕生日を祝うため作曲したカンタータ。物語の終盤、教会のパイプオルガンが奏でるその響きは、老年期の女性3人の再出発をことほいでいるかのようだ。

(祥伝社 1700円+税)=片岡義博

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