「王者VSルーキー」新時代の到来を告げた2007年。名門マクラーレンで起こった同門対決。フェルナンド・アロンソとルイス・ハミルトン【ライバル史】

どの世界にもライバルは存在する。互いを意識し、激しくぶつかり合い高め合っていく存在だ。モータースポーツの最高峰F1でも数多くのライバルたちが世界一の称号をかけてバトルを繰り広げてきた。今回は「皇帝」ミハエル・シューマッハが去り、新たな時代の幕開けとなった2007年に激しく争ったチームメイトバトルについて振り返る。

チャンピオンが名門マクラーレンへ移籍

シューマッハを破り、史上最年少で連覇を果たした若き王者フェルナンド・アロンソと、この年からF1デビューを果たし、王者アロンソのチームメイトになったルイス・ハミルトン。この2人のチームメイトバトルはシーズンが進むにつれ激しさを増していく。

そして、2人の対決は選手間だけではなく、やがてチーム全体を巻き込んでいくことになった。

フェルアンド・アロンソ(左)と、ミハエル・シューマッハ(右) www.marca.com

当時F1で絶対的な存在だったミハエル・シューマッハを下し、新たな時代を切り開いたフェルナンド・アロンソは、ともに2度の世界王者を獲得したルノーを離れ、名門マクラーレンに移籍した。

2001年にミナルディからデビューを果たし、下位チームでも非凡な才能を見せつけたアロンソは2002年、ルノーのテストドライバーに就任。翌2003年からはルノーのレギュラードライバーとして参戦し、優勝を含む史上最年少記録を次々と打ち立てた。

当時圧倒的な強さを誇ったのがミハエル・シューマッハとフェラーリのパッケージで、ドライバーズタイトル5連覇、コンストラクターズ6連覇の金字塔を打ち立てるなど、シューマッハは当時のF1のアイコンだった。そんなシューマッハが支配していたF1に変化をもたらせたのが2005年の大幅なレギュレーション変更だ。

勢力図が大きく変わったこの年に、一躍主役に躍り出たのがアロンソが在籍するルノーだった。最強のマシンを手に入れたアロンソはマクラーレンのキミ・ライコネンとのチャンピオン争いを制し見事史上最年少で世界チャンピオンに輝いた。

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当時史上最年少で世界王者となったアロンソの勢いは凄まじく、翌年は復活したフェラーリとシューマッハを直接対決で下し連覇を達成。2007年の強豪マクラーレンへの移籍はさらに記録を更新していく可能性に満ちていた。
そんなアロンソのチームメイトに抜擢されたのが、のちにF1の記録をことごとく塗り替えていく現在のスーパースター、ルイス・ハミルトンだった。

マクラーレンの秘蔵っ子がF1にデビュー

ルイス・ハミルトン(左)とフェルナンド・アロンソ(右) www.rtve.es

名門チーム、そしてチームメイトが2度も世界王者になっているという新人にはあまりにも厳しい環境でデビューすることになったルイス・ハミルトン。しかし彼の類まれな才能と実績を見れば、いきなり名門チームからの参戦というのも納得だろう。

イギリスのハートフォードシャー州ステヴィニッジ トゥイン出身のハミルトンは裕福な家庭の生まれではなかったものの、父親と二人三脚でカートに打ち込んだ。幼い頃から速さを見せていたハミルトンは10歳で英国ジュニアチャンピオンを獲得しステップアップしていく。

その頃出会ったのがマクラーレンのボスであったロン・デニスで、ハミルトンはデニスに「いつかあなたのマシンに乗りたいです」と伝えた。

その後も順調に成績を残していくハミルトンの姿を見たデニスは自らハミルトンに連絡し、マクラーレンとの間で契約を結ぶことになった。マクラーレンの支援を受けたハミルトンはフォーミュラにステップアップし、2006年にはF1直下のカテゴリーであるGP2に参戦、初年度でチャンピオンに輝いた。

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そして2007年、GP2チャンピオンの実績を引っ提げたハミルトンは共にキャリアを歩んできたマクラーレンからデビューすることになったのだ。

すべての始まりは伝統の「モナコ」

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開幕戦ではフェラーリのキミ・ライコネンに優勝を奪われたものの、アロンソが2位、ハミルトンがデビュー戦でいきなり3位表彰台に入り、上々のスタートを切った。ハミルトンのデビュー戦での表彰台獲得は1996年オーストラリアGPでジャック・ビルヌーブが2位を獲得して以来の快挙だ。

第2戦ではアロンソが優勝、ハミルトンが2位に入りワンツーフィニッシュを達成。第3戦はアロンソが5位に終わる中、ハミルトンはデビューから3戦連続の表彰台を獲得する快進撃をみせ、第4戦でも表彰台を獲得。まだ優勝はないものの、ハミルトンがランキングトップに躍り出た。2点差のランキング2位にアロンソが入り、チームは最高の形でモナコに乗り込んだ。

新人とは思えない活躍を見せるハミルトンだったが、昨年のモナコウィナーでもあるアロンソが意地のポールポジションを獲得。それでもハミルトンはライバルのフェラーリ勢を抑え予選2番手を獲得した。

スタートから順調にトップを快走するアロンソに対し、ハミルトンは1回目のピットストップでアロンソよりも多めに給油し、2回目のピットストップでの逆転を狙っていた。アロンソは51周目に2度目のピットインを行う中、ハミルトンがトップに浮上。そのままピットインを遅らせ、アロンソとの差を広げていくのかと思われた矢先、ハミルトンはアロンソのわずか2周後にピットイン。ギャップを十分に稼げなかったハミルトンはアロンソの先行を許してしまった。

レースはそのままの順位でフィニッシュしアロンソが優勝、ハミルトンが2位に入り、マクラーレンとしては1989年、セナ・プロスト以来のモナコ1-2フィニッシュとなった。

レース後、ハミルトンは2度目のピットインのタイミングについて不満を口にした。しかし、ハミルトンはブレーキに問題を抱えており、チームとしてはハミルトンを“確実”に2位でゴールさせるための策としてあのタイミングでピットインさせたわけだ。とはいえハミルトンからすれば面白くない作戦だったに違いない。憧れのモナコで勝てたかもしれないと思うと尚更だろう。

このチームオーダーともとれる作戦が2人の関係に微妙な歪みを生むことになる。

確執が決定的となった「ハンガリー」

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モナコ以降、ハミルトンはカナダGPで初優勝を挙げ、続くアメリカGPではアロンソとの直接対決を制し連勝するなど勢いが止まらない。アロンソは続くフランスGPでも表彰台を逃しハミルトンとの差が徐々に開いていく。しかしハミルトンの母国イギリスでは競り勝ち2位、続くヨーロッパGPではハミルトンがノーポイントに終わる波乱の展開をしっかり走り切り、フェラーリのフェリペ・マッサとのバトルを制し優勝した。

そして迎えた第11戦ハンガリーGP。チャンピオン争いを占う重要な一戦で、マクラーレンとドライバー2人に重大な事件が起こった。

それは決勝前日に行われた予選Q3でのこと。アロンソは最後のアタックに備えタイヤ交換のためピットイン。後ろにはハミルトンが待っている状態だがアロンソは自分がラストアタックできるギリギリのタイミングになるまでピットアウトをしなかった。その結果アロンソはラストアタックでポールポジションを獲得し、ハミルトンはアタックラップに間に合わなかったのだ。

実はこのラストアタック前、アロンソもハミルトンに抑え込まれるという駆け引きがあった。チームへの不満をアロンソはついに態度に出してしまったというわけだが、アロンソの予選での行動に対し、FIAは5グリット降格のペナルティーを科した。その結果ハミルトンがポール、アロンソが6番手スタートになったのだ。

抜きにくいハンガロリンクサーキットでは予選結果が極めて重要。決勝ではハミルトンがそのまま逃げ切り優勝、アロンソは4位に終わった。

スパイゲート事件、そしてチャンピオン争いは最終戦へ

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アロンソとハミルトンの関係が冷え切ってしまった中、2人を抱えるマクラーレンにも重苦しい空気が流れていた。

フェラーリからマクラーレンに意図的に機密情報が渡される「スパイゲート」と呼ばれる大スキャンダルが発覚したである。

事件の内容は、当時フェラーリのチーフメカニックを務めていたナイジェル・ステップニーが情報を渡し、マクラーレンのチーフデザイナーだったマイク・コフランが情報を受け取ったというもの。その情報が漏れ、フェラーリが動いたことで事件になったのである。

公聴会など法的なやりとりが2ヶ月間にも渡り行われ、世界モータースポーツ評議会はマクラーレンの2007年シーズンにおけるコンストラクターズポイントをすべて剥奪し、一億ドルもの罰金を科したのだ。

コース上では輝きながらも、ドライバー間の確執、そしてチームも存亡の危機とも言える状況に陥るなど、この年はマクラーレンにとって何かと問題の多い一年であった。それでもドライバーズチャンピオンシップのポイントは残され、アロンソとハミルトンはフェラーリのライコネンを交えた三つ巴のチャンピオン争いを演じた。

ネルソン・ピケ、アラン・プロスト、そしてナイジェル・マンセルによってチャンピオン争いが繰り広げられた1986年以来の三つ巴による最終戦決戦。当時は追いかける立場だったプロストが逆転で栄光を掴み取った。

最終戦前のランキングは1位ハミルトン107ポイント、2位アロンソ103ポイント、3位ライコネン100ポイントとなっており、当時のポイント配分は優勝が10ポイントのため、ハミルトンが圧倒的に有利な状況。しかしこの年のマクラーレンを象徴するかのように、レースではハミルトンはミスやトラブルにより7位、アロンソはペースが伸びず3位、そしてライコネンが優勝と、大逆転でライコネンがワールドチャンピオンに輝いた。

チーム代表のロン・デニスにとって同じ国のハミルトンとスペイン出身のアロンソでは対応に違いがあったのだろう。それに対し不満が出たアロンソの行動によりドライバーの間で緊張状態が走ってしまった。「セナプロ」に関してはデニスにとって共に違う国の人だが、ハミルトンは同郷の息子のような存在、セナプロの時とはまた違った問題があったように思える。

結果ハミルトンは翌年マクラーレンのエースとして初めてのワールドチャンピオンに輝き、アロンソはたった1年でマクラーレンを去ることになった。

ハミルトンが「支配」するF1にアロンソが復帰!

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2007年にしのぎを削るも、のちにお互いを認め合う関係になったアロンソとハミルトン。そんな2人が再びF1の舞台で両雄が相まみえることになった。

2021年からアロンソが古巣ルノー(ブランドはアルピーヌとして参戦)からF1に戻ってくる。

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近年では2016年からフルコンストラクターとしてF1に復帰し、年々ランキングを挙げてきた。昨年はダニエル・リカルド、エステバン・オコン共に表彰台に上がるなど進化を見せたが、トップチームとの差はまだまだあり、優勝を果たすことができずにいた。

そんなルノーが2021年よりアルピーヌF1チームと名称を変更。ブランド改革を果たしたわけだが、チームの体制も一新され王者を目指す。

ドライバーはF1に復帰するアロンソと昨年に引き続きオコンが担当。さらにチーム上層部の体制も変更されている。昨年までルノーF1でマネージングディレクターを務めたシリル・アビテブールに代わり、ルノーの事業戦略ディレクターを担当していたローラン・ロッシがアルピーヌのCEOに就任。F1だけでなく、アルピーヌの市販車、スポーツ部門の責任者も担当する。

さらにルノー・スポール・レーシングの会長であったジェローム・ストールは12月31日付けで退任し、ルノーF1チームでエグゼクティブディレクターを務めたマルチン・ブコウスキーがルノー・スポール・レーシング/アルピーヌ・レーシングのディレクターに就任。ブコウスキーはエンジニアとしての才能はもちろんのこと、チーム運営も巧みにこなすセンスを持ち合わせた人物だ。

そしてアビデブールの退任と同じくらい衝撃をもって伝えられたのがダビデ・ブリビオの加入だ。ブリビオは長らくMotoGPで活躍し、MotoGPの伝説ヴァレンティーノ・ロッシと共にヤマハの黄金期を築き、昨年はスズキにチーム&ライダーのダブルタイトル獲得に導いた。ブリビオはアルピーヌCEOのローレン・ロッシ直属としてアルピーヌのレーシングディレクターに就任する。

大胆なテコ入れとなったアルピーヌだがロッシにモータースポーツ経験がないことと、ブリビオもF1での経験がないところが気になるところ。

しかしこれほどまでの大胆な人事刷新から、今までの継続進化を捨て、本気でF1での成功を狙っていることが伺える。未だ世界最高のドライバーと言われるアロンソとのコンビネーションに注目だ!

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河村大志|Taishi Kawamura
2輪、4輪問わず幅広くモータースポーツの取材・執筆を行うフリーランスのモータースポーツジャーナリスト兼スポーツライター。F1やMotoGPといった世界最高峰のカテゴリーだけではなく、各国の若手育成プログラムやモータースポーツに関する歴史などを取材し、研究テーマにすることをライフワークにしている。

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