1999年2月 前田日明氏が明かす伝説の引退試合秘話 カレリン戦のギャラはたった200万円だった

前田とカレリン(左)の一戦は伝説になった

【ルックバック あの出来事を再検証(3)前編】今から22年前の1999年2月21日、格闘王・前田日明の引退試合で対戦相手に指名されたのはアレクサンダー・カレリン(ロシア)だった。レスリンググレコローマン130キロ級で五輪3連覇を果たし、2000年にはシドニー五輪を控えていた“元祖・霊長類最強の男”が他流試合のリングに上がったのは後にも先にも、この1試合のみ。連載「ルックバック」第3回前編では、前田氏が世界の格闘技史に残る「カレリン招聘」の舞台裏を振り返った。

新日本プロレス、UWF、リングスで絶大な人気を誇った格闘王も長年にわたる激闘の代償は大きかった。1993年と96年には左ヒザを手術。肉体が悲鳴を上げる中で、いよいよ「引退」の2文字が脳裏をよぎり始めた。

前田氏(以下前田)満身創痍はいつもだったから、どちらかというとメンタルなんだよね。なんか、試合で全然緊張しなくなったんだよ。97年くらいから。最初は「緊張しなくていいな」って思ったんだけど、よく考えると緊張するときってアドレナリンが出るでしょ。逆に緊張しないってことが大ケガにつながるんじゃないかって不気味で怖かったんだよ。

「世界最強の男はリングスが決める」。前田氏はラストマッチの相手として“霊長類最強の男”カレリンに白羽の矢を立てた。当時リングス・ロシア代表で旧ソ連国家スポーツ省の事務次官を務めたウラジミール・パコージン氏(故人)に引退の意思を伝え、カレリンとの交渉に入った。だが、並行してもう一つのメガマッチが浮上。97年10月に高田延彦に勝利した“400戦無敗の男”ヒクソン・グレイシーに前田氏が対戦を宣言したのだ。

前田 交渉はしたんだよ。あるとき、日本に来る予定があって、ヒクソンがブランドを立ち上げて記者会見すると。その時(対戦を)発表しようと。ルールは高田の時と全く同じでいい。ギャラも「1億5000万円」って言ってたけど用意できる。けど、成田着いた瞬間にPRIDEがさらっていったんだよ。俺、高田がヒクソンに負けた時に心配になってさ。「どうすんだよ」「引退するかもしれません」「俺がカタキとってやるから引退とか言うなよ」って言ってたんだよ。そんで高田の第2戦はないでしょ…。

結局、ヒクソンは98年10月に高田との再戦に進み、前田氏との一戦は破談。これを境にカレリンとの引退試合一本に気持ちを切り替えた。仮に同戦が実現していたとしても、80キロのヒクソンとは約30キロの体重差があったため、後年まで残る評価を得られたか分からない。日本とブラジルではともかく、世界的に見ればカレリンの方が知名度で上回っている自負もあった。「ヒクソンの名前が色あせることはあっても、カレリンの名前は色あせない」。99年1月22日、前田氏はカレリン同席の記者会見で引退試合を発表する。両者が顔を合わせるのはこの時が初めてだった。

前田 なんかゴジラみたいな顔してるなって。リングスがカレリンを呼ぶのに「億のカネを出した」とか言った人もいたんだけど、その試合のギャラは2万ドルだよ。当時のレートで200万円。「2万ドルで十分」って言われて「えっ」って驚いたの、こっちやもん。「お付きの人間を招待してくれてるから大丈夫」と。逆にヒクソンはなんで1億円以上払えるヤツとしかやらなかったの?

全盛期の金メダリスト、しかも五輪3連覇中のロシアの英雄が、打撃ありのルールでプロ格闘技のリングに上がるというインパクトはすさまじかった。後にも先にもカレリンが他流試合に臨んだのはこの一度だけ。当時カレリンは翌年のシドニー五輪で4連覇の偉業を目指す真っただ中で、メリットなどゼロに等しい。試合2日前にカレリンが来日してからも周囲から出場に反対する声、中止へと説得する声は消えなかった。

前田「4連覇のほうがはるかに大事」「帰ろう」って周りからガンガン言われて。だからぞろぞろお付きの人がいっぱい来たじゃない。もうパコージンがずっと頑張ってくれて。泣きながら「前田はペレストロイカでスポーツマスター制度が打ち切られ、生活ができなくなった選手を何十人と救ったと。そんな男のために、ロシアの英雄と言われる人間が1試合したところで何の不名誉なことがあるんですか」って言ってくれたのが決めゼリフになったね。

紆余曲折の末に実現した格闘技史上に残る引退試合は、前田氏が旗揚げ当初から掲げた「リングス・ネットワーク」の結実そのものだった。試合はグラウンドでの打撃がないことを除けばほぼリングスルールで行われる。ルール上は前田氏が有利のはずだが、下馬評は圧倒的不利とささやかれた。それだけカレリンの強さは別格視されていたのだ。99年2月21日、リングス旗揚げの地・横浜アリーナで、前田氏は「霊長類最強」が待つリングへ向かった。(後編に続く)

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