東京電力福島第1原発事故が起きる5年前。原発の耐震指針が改定され、電力会社に津波対策を求める一文が初めて入った。耐震指針は原発の審査に用いるルールだ。この時盛り込まれた津波対策は、既に運転している原発に対しては安全性に問題がないことを電力会社が自主的に確かめるよう国が指導する―という仕組みとなっていた。指導はあくまで「お願い」であり、強制力はない。津波対策が取られないまま福島第1原発事故は起きた。新たな指針や知見が既存の原発にうまく反映されないことはなぜ起きたのだろうか。原子力業界では有名なあの訴訟にその「源流」がある。(共同通信=鎮目宰司)
▽「相場観」で審査
1973年。原発建設の許可を巡る全国初の本格的な訴訟が提起された。四国電力が愛媛県伊方町に建設した伊方原発の地元住民らが政府を訴えた「伊方原発訴訟」だ。
原発そばを走る巨大活断層の評価が大きな争点となったが、原告の住民側が突いたのは、活断層や地震の客観的な審査指針がないことだった。では、電力会社の申請をどうやって審査していたのだろうか。
審査するのは通商産業省(通産省、現在の経済産業省)と原子力委員会だった。ちなみに原子力委からはその後、原子力安全委員会が分かれて独立し、安全委は福島第1原発事故後に消滅した。
役所の審査官を助けていたのは科学者たちだった。原子力委の事務局だった科学技術庁(現・文部科学省)にも、通産省にもそれぞれをサポートする科学者集団がいて、審査の委員会メンバーとなっていた。耐震指針はなかったが、地震学や地質学、耐震工学の専門家たちの「相場観」で決めていたようだ。
伊方訴訟の提訴当時、日本で運転をしていた原発は5基だった。国内初の建設のように「1点もの」の審査で、あらかじめ指針類を完備しておくことはまずない。手探りで初めて、徐々にルールが固まっていくのだ。
▽「お手盛り」
訴えを起こされた政府側の内情はバタバタだった。当時、法務省で裁判を担当していた山内喜明弁護士は、通産省、科技庁のメンバーと霞が関そばの旅館に泊まり込み「原発の設置許可とは何か」を研究した。「カンヅメ」で、役人が2~3人倒れたとうわさされるほどの「突貫工事」だった。
松山地裁の法廷には審査で用いた資料が示され、専門家委員らが証言台に立った。住民側弁護団長の藤田一良弁護士は、審査で何を検討したのかを、法廷という公開の場で明らかにすることを狙っていたという。
例えば1977年2月25日の証人尋問だ。活断層「中央構造線断層帯」を問題視する住民側の新谷勇人弁護士は、原発すぐそばの海域を調査するべきだったのではないかと、耐震関係の審査を担っていた東京大の大崎順彦教授を追及した。ルールなき、お手盛り審査ではないかと―。
「どの範囲まで調べろとお決めになっていませんか」(新谷弁護士)
「基準としては決めておりません」(大崎教授)
「物差しはないということですね」(新谷弁護士)
「専門家一般の頭の中にあることです」(大崎教授)
▽「安全」のお墨付き
審理の中で当時の原発耐震審査にルールが無いことを明らかにできたものの、1978年4月の地裁判決、84年12月の高松高裁判決、92年10月の最高裁判決と住民側は全て負けた。一方で、勝った当事者、政府側代理人の山内弁護士は後年、こう振り返った。 「真正面から安全は確保されていると判決してしまった」
一体どういう意味だろうか。審査して建設が許可されれば原発は安全だ、と判決がお墨付きを示してしまったということのようだ。「許可」イコール「安全」なら、その後に判明した知見や、それを基に作られた新たな指針に向き合って安全対策や設計の見直しをしていくことに電力会社は真剣に取り組まないかもしれない―。
これは、大津波を警告する新たな見解を真正面から受け止めずに起きた、2011年の福島第1原発事故の背景そのものだ。
全面的に主張が認められて勝訴したものの、政府はこの後、原発の安全性を巡る訴訟を次々と抱えることになる。それは、国民の原子力に対する不信感の高まりとも言えた。耐震問題で信頼を回復しようとするかのように、政府は指針作りに着手することになる。(つづく)
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