亡き娘への思いとともに 中学生向け「語り部」 家族4人失った陸上自衛官、東日本大震災10年

千葉県市原市立ちはら台西中で語り部をする佐々木清和さん=2020年11月

 東日本大震災の津波で妻ら家族4人全員を失い、ひとり残された男性は、14歳で亡くなった一人娘に「伝えるつもり」で語り部になった。本来は口べただが、何気ない日常のありがたさや家族同然の存在になったヒマワリ、寄り添ってくれる人々への思いを語り続ける。活動は中学校の教科書にも掲載された。宮城県多賀城市の陸上自衛官、佐々木清和さん(54)の10年をたどる。(共同通信=山口恵)

 ▽遺品片手に

 昨年11月、佐々木さんは生徒や保護者に向けた語り部講話のため、千葉県市原市の中学校にいた。宮城県名取市閖上(ゆりあげ)を襲った津波で、妻りつ子さん=当時(42)、一人娘の和海さん=同(14)、義母の石垣かつよさん=同(68)、義父利一さん=同(76)=の4人を失った。「これは娘が最期に着ていたジャージーです」。がれきがぶつかり、ところどころ破れた紺の上下を衣装カバーから取り出すと、体育館の空気が一瞬で変わった。

娘が最期に身に着けていたジャージーを生徒に見せながら語り部をする佐々木清和さん=2020年11月、千葉県市原市の市立ちはら台西中

 「言葉だけじゃだめ。五感で感じてほしい」との思いで、ジャージーを見せ、家族のドライブで聞いた竹内まりやの曲を流す。これまで7000人以上の前で話をしてきたが、特に気持ちが入るのは、亡くなった時の和海さんと同じ中学生向けの語り部。「娘に伝えるのと一緒」との思いで臨み「一日一日を大切に、どうか生きてほしい」とのメッセージを伝える。

 ▽あの日

 2011年3月11日朝。佐々木さんは怒りながら自宅を出た。手違いで炊飯器の電源が入っておらず、ご飯が冷たかったからだ。昼間、りつ子さんから電話がかかってきた。「まだ怒ってる?」「もう怒っていないよ」。それが最期の会話になった。

 同日午後2時46分、大きな揺れに見舞われた時、佐々木さんは宮城県内陸の駐屯地に、家族は海から約300メートルの同県名取市閖上にいた。「みんな逃げているはず」。願いは届かず、家族4人全員が犠牲になった。思い出が詰まった自宅も「きれいさっぱり」流された。

2011年3月21日、宮城県名取市閖上で行方不明者を捜索する消防隊員ら

 自衛隊員という仕事柄、家族には「何かあれば行かなければいけない」と常に伝えていた。当時は約70人を率いる車両整備の中隊長。部下に弱みは見せたくなかった。「家族は仕事を理解してくれる」と任務に没頭し、合間に市役所や遺体安置所を回ったが、手掛かりはつかめなかった。

 震災から10日後、遺体安置所で娘と対面した。閉鎖したボウリング場が急ごしらえの安置所になっていた。レーンの上に並んだ、たくさんのひつぎ、天井に響く誰かのおえつ…。きれいなままの顔を見て一瞬で分かった。「和海だ」。そして、思わず口をついた。「何で逃げなかった」。翌日、妻も見つかり、宿直室のベッドで声を殺して泣いた。

 独りになると、いろんな事を考えた。妻は毎朝、出勤前に「夕食は何が食べたい」と尋ねた。あのころ、日々の献立を考えるのがこんなに面倒だなんて知らなかった。携帯電話をねだる娘には、冗談のつもりで「中学4年生になったらね」と返したっけ。

 それから約4年の記憶はほぼない。「余計なことを考えたくなくて、仕事をしているふりをしていた」。食事を受け付けず、酒ばかり飲み、体重は10キロ以上落ちた。もともとぶっきらぼうなタイプだが、後になって友人に「あの時は話し掛けたらキレそうだった」と打ち明けられた。

 「妻と娘が生きた証しになる」。15年6月から、地元にできた資料館「閖上の記憶」で語り部を始めた。気持ちを吐き出し、誰かとつながれる場所も求めていた。

 ▽ヒマワリ

 気持ちを和らげてくれたのは、震災前までは見向きもしなかった「花」だった。現実を受け止めきれず、酒浸りの日々が続いていた震災翌年、新聞でたまたま「はるかのひまわり」の種の配布を知った。

 1995年の阪神大震災で犠牲になった加藤はるかさん=当時(11)=にちなむヒマワリの種が、鎮魂と復興の願いとともに各地に広がる。神戸には、倒壊家屋の解体で1カ月ほど派遣されたことがある。縁を感じて申し込んだ。

 それから毎年、独りで暮らす官舎のベランダや雑草だらけの自宅跡地でヒマワリを育てた。早起きして出勤前に水をやったり、雑草を抜いたり…。手をかけるほど応えてくれるような気がして、夢中になった。酒量はいつのまにか減っていた。

 2015年の夏、「暇だな」と家でごろごろしていると、ベランダの鮮やかな黄色が目に入った。初めて下から見上げたヒマワリは太陽に向かって真っすぐと伸びていた。「りつ子と和海も空から見ているかな」「もう会えないけれど、いつもつながっている」。この日から、ヒマワリは家族そのものになった。

官舎のベランダでヒマワリを見つめる佐々木清和さん=2018年8月、山形県東根市

 佐々木さんとヒマワリの物語は、元中学校教諭のフォトライター、かどまどかさん(37)の手によって本になり、中学校の道徳の教科書にも掲載された。その後、かどさんから、亡くなったときの娘と同じ中学生に体験を伝えてほしいと頼まれたことが、一歩踏み出す転機になった。「そろそろ前を向かないと、誰も応援してくれないよ」。机に向かい、原稿を準備していた時、妻と娘の声が聞こえた気がした。

 16年3月、大阪府寝屋川市の中学校に赴き、約400人の前で話した。「災害が来たら空振りになっても、まず逃げて。たった一つしかない命と、一日一日を大切にして」。娘を重ねてしまい、目を背け続けていたジャージー姿の中学生を、いつしか直視できるようになっていた

 ▽支えとともに

 「あっという間」に過ぎた10年。「失った家族の分も生きるとはどういうことなのか」「誰のために、何のために頑張ればいいのか」…。自分の役割を探してもがき続けた時間でもあった。

 「道しるべ」は、1985年に起きた日航ジャンボ機墜落事故で次男=当時(9)=を亡くした美谷島邦子さん(74)の存在。16年2月、被災地を訪れた日航機事故の遺族との交流会で言葉を交わし、「同じ悲しみを抱える仲間」と感じた。すぐにお礼の手紙と、語り部の原稿を送り、文通が始まった。毎年、墜落事故が起きた8月12日に登る現場の御巣鷹の尾根は「命を伝え続ける」との決意を新たにする大切な場所になった。

日航ジャンボ機墜落事故の遺族、美谷島邦子さん(左)と談笑する佐々木清和さん=2016年2月、宮城県名取市閖上(閖上の記憶提供)

 道徳の教科書に載ったことで、中学校に招かれる機会も増えた。昨年11月、大阪府寝屋川市での語り部には、佐々木さんを教科書や本で紹介したフォトライター、かどまどかさんも、生後3カ月の長女空ちゃんを胸に抱いてやってきた。空ちゃんをおぼつかない手つきで抱っこした佐々木さんは「俺のこと、じーっと見てくるなあ」と笑った。中庭には、この日のために生徒たちが咲かせた数十本のヒマワリ。「こんなにたくさん、すごい」。暖かな冬の日、にぎやかな生徒たちに囲まれて、照れくさそうにほほえんだ。

 佐々木さんにとって10年は「区切りなんかには決してならない、ただの時間の積み重ね」。いまだに津波の映像は見たくないし、独りの部屋に帰るのはさみしい。それでも、「亡くなった人の思いと新しいつながりを大切に生きていけたら」と少しずつ、思えるようになった。春が来たら、更地になったままの自宅跡地にまた、ヒマワリの種をまく。太陽に向かって咲く大輪を、家族はきっと見つけてくれるはずだ。

© 一般社団法人共同通信社