【藤田太陽連載コラム】引退後、野球以外にできることがないと不安になっていたら…

デーブさんが声をかけてくれた

【藤田太陽「ライジング・サン」(34)】2013年、ヤクルトのユニホームを最後に僕は現役引退を決意しました。長年、悩まされ続けた右ヒジの痛みから、やっと解放されました。心も体も限界にきていた僕は、どこかホッとした気持ちにもなっていました。

現役最後は週3本の痛み止めの注射に加え、患部の水を抜くというルーティン。右腕で箸を持つことすらできないのに、試合で投げるという異常事態でした。

引退を決めてから最初の1か月は痛みとストレスから解放されて、それは楽でした。でも、その後から襲ってきたのは喪失感でした。

俺って野球を辞めたら何も残らないんだ。野球以外に俺の価値はないんだ。でも一体、野球以外に何をすればいいんだろう。そういう感情に襲われました。

まだ33、34歳の若造ですよ。現実を考えたら野球以外にできることが本当にないなと不安になりました。

そんなときに声をかけてくださったのがデーブ大久保さんでした。「特別に何かすることがないなら、ウチの野球塾で子供たちを教えてみてはどうだ」とお誘いいただきました。収入としては大きいものではないですが、引退後の活動はそこから始まりました。

それに加えて故郷の秋田に帰ってフリーの野球解説者として地元メディアに出演したり、少年野球教室に講師として参加させていただきました。

ただ、こういった活動も未来永劫続くというものでもない。野球に携わる仕事はずっと続けたいし、しなきゃいけないとは思っているけど、ちょっとした違和感も持っていました。

自分にできることって何なんだろう。これまで、ファンの方々に支えてもらってきた。では、僕の存在で喜んでもらえる人たちに恩返しできないか。

そう思って飲食業界も経験しました。将来的にはスポーツバーをやってみたい。そう思い立って東京・西麻布エリアの有名焼き肉店でアルバイトとして修業を開始しました。

店内の掃除から閉店までオープンラストで仕事しました。自分で経営するためには、損益計算からスタッフの手配、仕入れ業者の情報、接客などすべての要素を勉強しないといけません。なので、できる限り全部を経験させてもらいました。

夕方4時から朝8時までお店にいることだってありました。その後からアフターでお客様にお付き合いするという生活パターンも珍しくありませんでした。

家族からするとあの人毎日、六本木で遊んでんじゃないかしら?と思っちゃうような生活だったでしょうね。

体力の限りお客様とのお付き合いもさせていただきましたし、そのかいもあって固定客もたくさん獲得できたと思います。

ただ、今度はそうなると午前中から始まる野球教室には参加することは不可能になってくる。スイッチを切り替えればいいんですが、そんな簡単なものではありません。

1年間、精一杯修業したら自分のお店を開こう。そう思って行動していました。水面下では店舗物件も下見して、家賃交渉なども始めていました。そんな中、自分の中の別の自分が「それでいいのか?」と問いかけてきました。

このまま夜型の飲食業を開業したら…。スポーツバーの開業は夢だけど、今でないとできないのか? 野球を忘れるために夕方から早朝まで仕事しているわけではないよな? 今の自分がやらなきゃいけないことの優先順位は? そう考えているころ、ある職場から声をかけていただきました。

1年間、寝ないで働いた。でも、そのおかげで野球の大事さを再認識できた。不安で不安で、動いて動いて動きまくった。でも、行動した結果、いい出会いに恵まれることになりました。

☆ふじた・たいよう 1979年11月1日、秋田県秋田市出身。秋田県立新屋高から川崎製鉄千葉を経て2000年ドラフト1位(逆指名)で阪神に入団。即戦力として期待を集めたが、右ヒジの故障に悩むなど在籍8年間で5勝。09年途中に西武にトレード移籍。10年には48試合で6勝3敗19ホールドと開花した。13年にヤクルトに移籍し同年限りで現役引退。20年12月8日付で社会人・ロキテクノ富山の監督に就任した。通算156試合、13勝14敗4セーブ、防御率4.07。

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