福岡県知事に県庁生え抜き副知事確実の裏事情~ 麻生・古賀・山崎の死闘(歴史家・評論家 八幡和郎)

福岡県の小川洋知事の癌治療を理由とした辞職に伴う県知事選(3月25日告示、4月11日投開票)について、自民党福岡県連は8日に、服部誠太郎副知事の推薦を党本部に申請する方針を決めた。

元国土交通省局長の奥田哲也も立候補の意向を示していたが、二階俊博幹事長を訪れその説得を受ける形で出馬を断念した。

奥田氏擁立は、自民党の古賀誠元幹事長、山崎拓元副総裁、二階派の武田良太総務相らが仕掛け人だった。

福岡県では、衆議院福岡6区選出の鳩山邦夫が2016年6月21日に死去し、補欠選挙に、自民党福岡県連は、県連会長を務める蔵内勇夫(日本獣医師会会長として加計事件では新設反対の中心だった)の息子で元秘書の蔵内謙の公認を党本部に申請。麻生太郎財務相もこれを支援した。

これに対して、鳩山氏の息子で大川市長だった鳩山二郎が立候補し、党本部は蔵内に出馬辞退を促したものの、蔵内が応じなかったため蔵内、鳩山のいずれも公認せず、当選した候補を追加公認する方針を決定した。

この補選は10月23日に投開票され、小池百合子らの応援も受けた鳩山が4倍という大差をつけて圧勝し、当選後に自民党の追加公認を受けた。

この時に、小川洋知事が蔵内を応援しなかったこともしこりとなって、2019年の知事選挙では麻生太郎、蔵内氏らの主導で自民党福岡県連は厚生労働省出身の武内和久を擁立した。しかも、もともと経済産業省の後輩である小川洋を後継として連れてきたはずの麻生渡前知事も武内支援にまわった。

同じ経済産業省出身でも、豪腕型で全国知事会会長もつとめた麻生と調整型の小川との肌合いの違いも原因といわれる。

この選挙では、公明党も自主投票を決定し、自民党内でも小川を支援する議員もおり分裂選挙となり、小川が当選した。

一方、今回の選挙では、前回の選挙での分裂を繰り返さないということと、コロナ対策の継続性を確保意図もあって、麻生、小川のいずれも異存ない候補としてコロナ対策の最前線で指揮にあたってきた服部誠太郎副知事が浮上した。小川の副知事ではあるが、もともと、麻生が抜擢して引き上げた人物だ。

これに対して、前回の知事選挙で小川氏を推した古賀、山崎らは、奥田の擁立を模索したが、小川氏の後援会長も務めた地元財界のドンといわれる松尾新吾・九州電力特別顧問も服部氏に傾き勝負があった格好だ。

服部は、1954年小倉市(現北九州市)出身。小倉高等学校、中央大学法学部卒業。財政畑で生え抜き福岡県庁職員としては初の財政課長、総務部次長、福祉労働部長を経て2011年から副知事だった。

福岡県庁(Wikipediaより)

県庁生え抜き職員が知事になるのは近年では珍しい

 「47知事の履歴書を調査~東京大学26人・他府県出身19人 」でも指摘したが、県庁生え抜き職員が「地方の時代」といわれた1977年には11人もいた。それが現在は3人で、しかも、福田富一栃木県知事は早々に県庁を退職して宇都宮市議になっているし、秋田県の佐竹敬久知事は、もともと殿様一族なので少し違う。

結局、副知事から知事になった長崎県の中村法道のみが1970年代型のオーソドックスな地方公務員出身者だ。 極端な年功序列で50歳で課長がやっとという人事ではチャンピオンは生まれないのだ。

今回はコロナ下の知事の病気辞任という特殊な状況なので、66歳という高齢ながら即戦力ということで、ただちに一般化するとも思えないが、それでも全国の県庁職員にとっては、励みになるだろう。県庁に毎年、何千人もの新人が入りながら、将来、トップになることはほとんどゼロでは寂しいことだからだ。

参考までに、この機会に過去に他県で生え抜きで知事になった例を紹介してみよう。今回は、九州のみを扱い、次回(ニュースの都合でそれ以降になるかもしれないが)には、生え抜き職員と県議から知事といった例について全国をリサーチしてみたい。

長崎県では、金子原二郎知事が前年の9月には、県議会の答弁の中で4選出馬に意欲を見せ、出馬はほぼ間違いないとされていたが、11月に入り金子が「自ら取り組んだ仕事に一定の道筋がついた」として4選不出馬を表明した。

これで、大混乱に陥り、自民党は藤井健、中村法道両副知事に打診したが、藤井は国交省に戻ることを希望し、中村が漁夫の利を得た。

民主党県連は、農水省官僚の橋本剛を擁立した、プロレスラーで元参議院議員の大仁田厚、県議会議員の押渕礼子、共産党推薦の深町孝郎など7人の争いになったが中村が圧勝した。

宮崎県では、1999年の知事選挙で現職の松形祐堯(1979~2003)の6期目に、県庁の商工労働部長をつとめた安藤忠恕(2003~)らの挑戦を受けた。なんとか、6選目を果たしたものの得票率は4割にとどまった。

2003年の選挙では、再挑戦した安藤が27万4,000票を獲得し、24万8,000票をとった出納長をつとめていた牧野俊雄らをおさえて当選した。現役の松形知事に挑戦して負けて、再挑戦して栄冠を勝ちとった希有な例であるが、このことについて、安藤は私のインタビューのなかで次のように語っている。

「最初に出馬したときですが、二人の知事が長くやって停滞感が感じられていたものの、手を上げる人がなかった。だから、お前勇気があるなあ、といわれたものです。勝てると思っていましたが、最終的には県議会議員のベテランお二人が出られて票が分散してしまいました。

しかし、次点をもらったので、翌日から再び県内をまわりました。県庁に30年もおって県内のことや県民の思いはよくわかっていると思っていましたが、そうではなかった。あらためて、現場主義というか、県民の生の声を直接聞いて、県民が主役という原点に戻ろうという思いを強くしました。それが、私の『県民主役』『情報公開』『宮崎を変えよう』という県政運営の基本となっています。」と語っていた。

ところが、安藤が浪人中に全国的に入札制度をめぐる環境が大きく変わっていた。それまでは、指名業者に政治的な意図で入れることも、その業者に落札させることも広く行われていたが、そういうわけにもいかなくなった。

ところが、安藤は4年前の感覚で約束などしていたらしく、時代にそぐわぬ、無理な介入をして、結局、競売入札妨害(談合)容疑で捜査され辞職したが、その後、逮捕され、懲役3年6月の実刑判決を受けて上告中に死去した。

鹿児島県では、3人連続、自治事務次官が知事になっていたが、土屋佳照(1989~96)が、2期目の途なかばで脳出血で倒れ、入院したまま、辞表を提出した。

土屋の病気辞任を受けて知事候補になったのは、副知事の須賀龍郎だった。自治省の事務次官経験者の指定席となっていたところへ、高卒の一般職員からの昇格だった。

長期にわたり県の東京事務所長をつとめ、辣腕を振るった。1974年に鹿児島に企画部長で戻り、総務部長のあといったん退官したが、出納長、副知事として県庁に戻った。普通の意味の知事候補としては、高齢で常識外であったが、非常時であり、また、3人の自治次官のあとでは、生半可な官僚でつとまるものでないということも、山中貞則や二階堂進らも考えたのであろう。須賀は立候補の条件としそれまでの自民党公認でなく無所属を主張し、超党派の支持を受けた。

須賀の時代に、前任者の時代から進められていた県庁舎の工事が完成し、鶴丸城近くの旧庁舎から海岸部の新庁舎へ移転した。大隅半島の上野原で縄文時代前期の大集落が見つかり、遺跡公園として整備された。いまやたいへんな薩摩焼酎ブームだが、これも、須賀の時代の地道な努力が実を結んだものである。須賀がとくに力を入れたのが、コンベンション施設や豪華客船の停泊できる「マリンポート」で、須賀はこれを鹿児島の未来に絶対に不可欠なインフラだと胸を張る。

 

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