〈65〉幸福寿命 幸せな最期、常に意識を

 令和も3年。仕事はじめの日に、沖縄県の医師会報で味わいのある言葉に出会った。「幸福寿命」なる表現が用いられていた。

 「寿命」。過去に、尊敬する老師の言葉があった。人は、病気でもって「最期」を迎えるのではなく、「寿命」によって迎えるのです……と。いまだに、その言葉を自分のものとして捉えることができていない。「天寿」。言葉として分かっても、実感として受け止めることは至難の業である。

 老健施設の勤務も4年が経過した。「がん」の診療から「老年医学」への突然のギアー・チェンジでした。施設は、100床。95床を長期の入所者、5床を短期の入所者(ショートスティ)に用いている。入所者の平均年齢は90歳。100歳以上の方が約10人。長寿県・沖縄の面影が残っている。

 長期入所者で経管栄養の方が約20人。コミュニケーションが成立しない。「お腹がすいた」、「食べたくない」などの感情に関係なく、定時に食事が注入される。考えさせられる病態ではあるが、枕もとの家族による「一輪挿し」に、人の繊細な思いに「情」がなびく。

 「健康長寿」。地元の老人クラブでの講演を依頼された。講演の後の多くの質問に、「健康長寿」の意味が理解できた。これほどの反応があるので、施設の通所の方々にも話題を提供したいとの思いから、その場を設定してもらった。残念。全く、反応がなかった。そうです。認知症の合併が8割強なのです。

 「老年医学」も、健康長寿の方々への医学と介護を必要とする認知症を合併した方々への応用は異なることが分かりました。目指すべきは、「健康寿命」でした。

 「認知症」も悪いことだけではない。「がん」を合併した認知症の高齢者も積極的に受け入れている。痛みに対する麻薬を必要としない。骨転移があっても。認知症は、痛みに対する感覚も鈍くする。

 「自分で決める、自分の医療」。個人主義の発達した欧米諸国と、日本、いや、沖縄の「ゆいまーる」の社会では、人生の最期の場面に対しての考え方、受け止め方には大きな相違があるものと考えたい。

 「健康長寿」、「健康寿命」もさることながら、最期まで幸せでありたいと願う「幸福寿命」についても、常日頃から考えておきたい。「時」を大切に。

(石川清司、介護老人保健施設「あけみおの里」)
 

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