震災43日後に再始動、翌年選抜へ 生徒の「野球、やりてぇ」に応えた石巻工監督の覚悟【#あれから私は】

現在は宮城県高野連の理事長を務める松本嘉次氏【写真:高橋昌江】

現宮城県高野連理事長は、2012年選抜に出場した石巻工を指揮

2011年3月11日に発生した東日本大震災。あの夏、宮城県沿岸部の3校は地方大会開会式で横断幕を掲げ、力強く入場行進した。「あきらめない街・石巻!! その力に俺たちはなる!!」。中でも、筆書された石巻工のメッセージは全国に強烈なインパクトを与えた。翌12年春には21世紀枠で第84回選抜高等学校野球大会に出場。彼らは復興へと歩みを進める街の活力だったはずだ。「3・11」から10年。あの時の部員は今、どんな“力”となっているのか。当時の監督で、現在は宮城県高野連の理事長を務める松本嘉次氏に聞いた。

「これ、やっぱり、すげぇなぁ。懐かしいねぇ」。松本理事長の手元には2011年7月10日付のスポーツ紙。そこには「あきらめない街・石巻!! その力に俺たちはなる!!」と筆書された横断幕を持ち、Kスタ宮城(現楽天生命パーク宮城)を行進する石巻工ナインの写真が大きく掲載されている。

「プリンターで出す文字よりも、手書きの方がいいかなって思って。書いたのは国語科の女性の先生。実際、何もなかったしね。あの布なんて、シーツだよ。震災が起こって、学校にあるいろんなものを使った。保健室のシーツも洗濯したけど、もう使えなくなったから。マネジャーが縫い合わせてさ。それに書いてもらったんだ」

一瞬にして、街の光景も日常も変わった。2011年3月11日、午後2時46分、巨大な揺れが日本を襲った。マグニチュード9・0。石巻市は震度6強を記録した。そして発生した津波。学校は海から約3キロ内陸にあるが、濁流は旧北上川から学校の横を流れる北上運河を逆流してきた。地震が起きるまで打撃練習に励んでいたグラウンドにも水が侵入。みるみるうちに水位を上げていき、校舎1階は水没した。松本理事長は水につかりながら同僚たちと近隣住民の救出活動を行い、雪が降る中、学校前のアパートの2階の廊下で一晩を過ごした。

2011年3月22日に除去作業を開始、1か月後に練習を再開させた

想像を絶する恐怖体験をした人々は、その後も壮絶な日々を送る。石巻工の部員の中にも自宅を流された者が何人もいた。見つからない家族を瓦礫の中から探し続ける部員、見つけた部員、遺体安置所を回って歩く部員もいた。家族、親類、友人、知人、誰もが身近な人の訃報に胸を締め付けられた。避難所の蛇田中でしばらく運営の中心的役割を担っていた松本理事長も親戚を亡くした。

石巻市の面積は555.4平方キロメートル。そのうち、浸水面積は73万平方キロメートルで、平野部の約30パーセントに及び、中心市街地は全域が浸水した。死者・行方不明者に関連死も含めると、犠牲者は3900人以上。建物の全半壊、一部損壊は5万6000棟以上にのぼる。石巻工グラウンドの最高水位は170センチ。あの瞬間まで誰かの生活を支えていたであろう冷蔵庫に洗濯機、タイヤに電柱……、泥にまみれた漂流物がたくさんあった。そんな状況で、松本理事長の背中を押した出来事があった。

「職場がなくなった、家もなくなったという保護者から『子どもたちが野球をやっているところを見るのが楽しみだから、先生、やってけろ』って言われて。子どもたちも『やりてぇ』ってなった。この状況で、なんでこの子たちは『やりてぇ』って思うんだろうって思ったよ。あきらめてないんだよな、『野球、やりてぇ』って」

震災から11日後の3月22日。漂流物や重たいヘドロの除去作業がはじまった。1つ1つ、コツコツと片付けていく日々。黙々と作業を続ける高校生の姿、車ではなく自転車や徒歩で目的地に向かう人々の姿を見ていた時、松本理事長の頭にフッと浮かんだのが、あのフレーズだった。「本当は『あきらめの悪い街・石巻』だったの」。それを「あきらめない街・石巻」とし、のちに人々の心を揺さぶるスローガンとなった。

「あの地区で最初に練習をはじめられたのが石巻工だった。(フレーズは)こういう状況で野球をやる覚悟かな」。重機を貸してくれた人、県内で津波被害のなかった地域からチームで手伝いに来てくれた高校生など、多くの力によってグラウンドは復旧。作業開始から1か月後の4月23日、練習を再開した。

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2012年選抜、阿部翔人主将の選手宣誓は涙と感動を誘った

2011年夏は2、3回戦を勝ち上がったが、4回戦で敗退し、3年生は“引退”した。その秋、石巻工は宮城県大会決勝に進出し、東北大会に初出場。県大会準々決勝を前に台風15号でグラウンドが再び水没する災難を経てつかんだ結果だった。そして、震災から1年となる翌春には21世紀枠でセンバツ出場。春夏通じて初の甲子園で、当時の主将・阿部翔人さんは選手宣誓まで引き当て、「人は誰でも、答えのない悲しみを受け入れることは苦しくてつらいことです」「その苦難を乗り越えることができれば、その先に必ず大きな幸せが待っていると信じています」といった言葉で人々の涙と感動を誘った。

「3・11」から10年、センバツ出場から9年。松本理事長は言う。「力になったかどうか、それは周りが判断すること。でも、10年が経っても、いろんな人と話すと、あの時の話になる。それって、力になっていたということなんだろうね。その人たちにとっての印象的な出来事、楽しみになったかもしれない。そう思えば、少しは力になったのかなという気がしますね」

当時の部員たちは26、27歳になった。「『あの子たちに何か言うことありますか』って聞かれることがあるけど、何にもねぇ。立派だもん、立派」。

2011年の主将は仙台六大学リーグの東北工大で野球を続け、大学院を経て東北地方で最大手の建設会社に就職。後輩も続いている。マグロの遠洋漁業で船に乗っている人、県や市の職員になった人、自衛隊員になった人もいる。選抜出場メンバーでは、エースだった三浦拓実さんが東北福祉大からクラブチーム「東北マークス」に入り、現在も現役だ。2年生で唯一のレギュラーだった伊勢千寛さんは富士大を経てJR東海へ。昨季で引退したが、伝統ある社会人野球チームでプレーした。左腕投手の阿部剛司さんは社会人野球の日本製紙石巻で3年間プレーし、現在は社業に就いている。

石巻の水道局で働く教え子は2019年の東日本台風で甚大な被害を受けた宮城県伊具郡丸森町の復旧に従事した。市からの派遣が決まった時、真っ先に希望したのだという。松本理事長は「えらい!」と褒めた。2012年の主将・阿部さんは日体大を卒業後、石巻高などで保健体育科の非常勤講師を務め、5度目の採用試験で合格。この4月、宮城県内の高校に赴任する。地元で海苔の養殖業に励む人、家業を継いだ人、小学校や高校の教員になった人、そしてなんと、マジシャンになった人まで!

「みんな、すごい頑張ってんだっけ。今、こうやっていますよとか教えてくれるの。マジシャンはびっくりしたけどね(笑)。みんな、それぞれで頑張っているんだね。大したもんだ」

コロナ禍の昨年、全国で唯一県大会の先になる東北大会を実施

松本理事長は2014年夏まで石巻工を指揮し、15年4月に仙台工へ異動。11年に就任した県高野連副理事長を18年まで務め、19年に理事長となった。昨年はコロナ禍で奔走。「世の中にできないことはない。できない原因を取り除けば、できることは増える」と、全国で唯一、県大会の先につながる東北大会まで実施した。

「部員、その家族、すべての学校の指導者・関係者、そして観戦を我慢した高校野球ファン、みんなに感謝だよ」

反対意見もあったが、どうすれば開催できるのかを考え、あきらめなかった。「動かないと、何も変わらない。現状維持というのは、穏やかな下降線。つまり、進歩がない。でも、動けば変わるでしょ。(コロナから)元に戻るなんて、思っていない。“元”以上のことをやらないといけないの」

それぞれに流れた10年の月日。みんな、今日も社会のどこかで奮闘し、何かに貢献し、誰かの力になっている。松本理事長も「野球、おもしぇっちゃ(面白い)」と言いながら、これからも街と野球の力になっていく。(高橋昌江 / Masae Takahashi)

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