東日本大震災・原発事故10年 長崎と福島<上> 避難と帰還 高島で前を向いて生きる

移住した奥山典子さん(右)と夫豊文さん=長崎市高島町

 穏やかな海風が吹き、静かに時が流れる。都会の喧噪(けんそう)はここにはない。福島県浪江町出身の奥山典子(36)は、長崎市の離島・高島に移り住んで8回目の春を迎える。
 10年前、今の自分を誰が想像しただろう。
 福島県川内村の中学校で、非常勤の音楽教師として働いていた。2011年3月11日。あの日は卒業式だった。教え子たちを送り出し、車で帰宅途中、車体が激しく揺れた。パンクかと思い車を降りたが、とても立ってはいられない。地面にはいつくばった。「周りの車のドライバーたちはパニック状態だった」
 自宅が心配になり、家路を急いだ。「高台へ避難してください」。防災行政無線が不気味なサイレンを鳴らし、津波から逃げるよう繰り返す。海から離れた浪江町川添地区の自宅は津波被害こそ免れたものの、電気や水道などは寸断。暗闇と寒さの中、母、祖母と不安な一夜を過ごした。
 東京電力福島第1原発が立地する双葉町の小学校で教頭をしていた父が、自宅に帰り着いたのは翌12日早朝。原発が危ないと思ったのだろう。父はせかした。「取りあえず2、3日分の荷物を持って山の方へ逃げろ」。家族で身を寄せた山間部の避難所。テレビ画面が水素爆発の様子を伝えたが、現実の世界の出来事とは思えなかった。
 浪江町は全域が避難指示区域となった。帰る古里を失った典子は、08年に仲間と立ち上げた音楽グループ「RAINBOW MUSIC」のメンバーで、交際相手だった豊文(41)と千葉県へ避難。生活のためケーキ屋でパートを始めた。だが、慣れない土地での暮らしに、次第に心身をすり減らしていく。
 転機は14年春。九州での音楽ツアーをきっかけに高島に移住した豊文に誘われ、この地に渡った。縁もゆかりもなかった長崎。それでも、住民同士の距離が適度に近く、静かで音楽活動に集中できるこの島をすぐに気に入った。豊文と18年に結婚。「都会はしんどかったし、心が落ち着く場所にいたかったのかも。今は戻る戻らないじゃなく、ここで生きていきたいかな」
 時折、古里を思い出してつらくなる時がある。なじみの商店街や、春には満開の桜が連なる町並みの記憶-。帰還を断念した両親は浪江町の自宅を取り壊し、数年前に郡山市に新居を構えた。地元の友だちも皆、浪江を離れた。震災前の暮らしには、もう戻れない。
 福島第1原発には複雑な思いもある。「原発で働いて給料をもらっていた友だちもいたから」。地元では子どもたちが毎年、社会科見学に行くような身近な存在だった。だから、原発は不要とはっきり言えない自分がいる。
 高島に永住すると決めたが、浪江は心に残り続ける。「あんまり考えすぎると前に進めないから。でもいつかは、福島を癒やす歌を歌いたいな」。夏ごろ、新たな家族が加わる。豊文や生まれてくる子ども、そして仲間たちと前を向いて生きていこうと考えている。
(文中敬称略)
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 東日本大震災と福島第1原発事故から10年。同原発が立地する福島県にはなお帰還困難区域が残り、復興への道のりは遠い。生活再建や記憶の継承などの課題、被爆地長崎の役割などを考える。

 


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