東日本大震災・原発事故10年 長崎と福島<下> 継承 記憶の風化 防ぎたい

自らが編さんを担った「震災記録誌」を手にする喜浦さん=福島県大熊町役場(同町提供)

 津波で変わり果てた町。全町避難に伴い、用意されたバスに乗り込む住民たち。避難所の布団の上で、東京電力福島第1原発事故を伝える新聞を読む高齢女性-。同原発の立地自治体で、2019年まで全町避難を余儀なくされた福島県大熊町が17年に発行した震災記録誌(A4判、170ページ)は、生々しい被害の様子、遺族の思い、復興への歩みなどを写真や証言で伝えている。編さんに当たったのは、西海市出身の喜浦遊(39)だ。
 全国紙の記者として13年秋、福島支局に赴任。当時、会津若松市に役場機能を移していた大熊町の取材担当になったことが、人生の転機となった。
 原発事故から福島がどう復興していくのかを見届けたいと、16年、同町役場に転職。町が計画していた記録誌の編さんが初仕事になった。災害対応に奔走した職員、家族や家を失った住民ら約100人に聞き取りをする日々。当時のメモやファクスなどの文書と照らし合わせ、作業には丸1年を要した。
 編さんに当たり、主眼を置いたのは「70年後、100年後に“参考文献”になるような資料として残す」ということ。被爆県の長崎で平和教育を受けた自身の経験から、次代への継承がいかに重要かを理解していた。
 喜浦は言う。「原発事故や震災は、また起きるかもしれない。その時、『未曽有』とか『想定外』という言葉を繰り返してはいけない」と。それは、被災地以外へのメッセージでもある。「今も家に帰れない人がいることを想像し、自分たちが住む町のこととして考えてほしい。それが『福島』を繰り返さないことにつながる」
 県立大佐世保校3年の鈴木直緒(21)=佐世保市=も、記憶の風化を懸念する一人だ。
 福島県郡山市出身。原発事故では自宅に除染作業員が訪れ、登下校時には線量計を身に着けた。日常が一変し、「放射線という目に見えないものへの恐怖を感じた」。だが、あれから10年。今年2月13日夜に古里の福島などを襲った最大震度6強の地震を、どこか遠くの出来事として受け止めている自分がいたという。
 昨年11月、鈴木は核廃絶に向けた平和活動に取り組む「ナガサキ・ユース代表団」9期生になった。今後は同世代の若者らに、ユーチューブで核問題や原発事故、福島の現状を発信する予定だ。「考えるきっかけをつくりたい。一人一人が自分事として考えることが(震災や原発事故の)記憶の風化を防ぐことにつながる」。10年前の当事者として、そして被爆県で活動する若者として、自分に何ができるか考え続けている。

 


© 株式会社長崎新聞社