「非常時」の恐ろしさ、五輪強行開催への疑問  書き続け訴え続けたジャーナリスト、関千枝子さんを悼む

By 江刺昭子

1985年度の山川菊栄賞のパーティーで話す関千枝子さん(右)と筆者。「女たちの現在を問う会」 の『銃後史ノート』が受賞した

 2月21日に亡くなったジャーナリスト、関千枝子さんの代表作の一つは、被爆死した同級生たちの最期をドキュメントした『広島第二県女二年西組 原爆で死んだ級友たち』である。関さんがその取材を始めたのは、姉の黒川万千代さんの写真集がきっかけだった。(女性史研究者・江刺昭子)

 黒川さんは広島女子専門学校(現・県立広島大)在学中に被爆。神奈川原県爆被災者の会を結成し、日本被団協事務局次長も務めた。エネルギッシュな平和運動家で、広島市内に100以上ある原爆慰霊碑の写真を5年がかりで撮り、1976年に『原爆の碑 広島のこころ』を自費出版した。

関さんの姉、黒川万千代さん(1985年頃)

 初めて出版された慰霊碑の写真集で、関さんは解説の文章を手伝う。そして決意する。

 それまでは遺族に被害の状況を聞くのは、傷痕をかきむしるようで、そっとしておきたかった。だが30年たった。むしろきちんと事情を聴き、記録を残したい。それが死者への供養になるはずだ。

 当初はほとんどの遺族の住所が不明だったが、周辺の人びとの協力を得て全遺族の住所が判明する。毎年8月6日前後に数軒ずつ訪ねて、30年たっても変わらない遺族の悲しみに触れた。調査を重ねて証言を突き合わせ、できるだけ正確な記録をと心がけた。

 渾身のルポルタージュが本になったのは85年。反響は大きく、第33回日本エッセイストクラブ賞と日本ジャーナリスト会議奨励賞を受賞した。

 出版までに8年もかかったのは、「全国婦人新聞」の記者をしながらの子育てという多忙さや取材経費の負担に加え、靖国神社の問題が絡んでいた。

 死んだ級友たちは靖国神社に合祀されていた。戦時の国策である勤労動員で建物の取り壊しをしていた少年少女たちは、「お国のため」に死んだのだと、生徒の親たちが遺族年金を求めて国に働きかけた結果、「準軍属」として靖国にまつられ、その後、叙勲も受けた。遺族の多くは喜んだ。

 だが関さんは、戦争遂行において決定的に重要な役割を果たした靖国神社に、国策の犠牲になった級友たちがまつられるのはおかしいと考えた。それに他の被爆者や空襲で死んだ人たちは何の補償も得ていない。遺族の心情を思い、迷ったが、『広島第二県女二年西組』には、そのこともしっかりと書き込んでいる。

 靖国問題にはその後もこだわり続けた。

 2001年8月、小泉純一郎首相(当時)が靖国神社に参拝すると、「靖国神社公式参拝違憲訴訟」の原告に名を連ねた。13年12月、安倍晋三首相(当時)が参拝したときも、国や首相、神社に賠償を求める訴訟の原告になった。

 この訴訟では原告代表として、地裁の第1回口頭弁論で意見陳述した。少し長くなるが、その内容を関さんの個人ブログから引用する。 

―10分という制限があります。思いをギュッと濃縮しなければなりません。(中略)私はその日だけ学校を休んで命を助かったのですが、その奇跡がなければ、靖国の神になっています。これは「英霊本人による訴訟です」と申しました。戦死者をほめたたえ「英霊」にする靖国神社の神になることは絶対にいやということ。(中略)死んだ友に贈りたいのは絶対の平和であり核兵器の廃絶であること。だから私は「戦後民主主義」を大切に思い生きてきたこと。それを破棄する安倍首相の「戦後レジーム」の終焉は憲法の平和的生存権に違反し許せないことを語りました―

2018年10月、控訴審で敗訴判決を受けた後、記者会見する関千枝子さん

 最高裁まで闘ったが、敗訴した。

 毎年8月に広島を訪れて原水禁大会などに出席するのはもちろん、危機感を募らせたのだろう、2000年頃からは、求められればどこへでも、手弁当で証言活動に出かけるようになった。修学旅行生らを案内して平和公園周辺をめぐり、郊外にまで足を延ばして慰霊碑などの説明をするフィールドワークも1人で始めた(のち広島YWCA主催に)。

2013年8月、広島で子どもたちに被爆体験を語る関千枝子さん

 2年前の1月には大腿骨を骨折して入院したが、必死のリハビリをして8月には被爆地に立った。コロナ禍の昨年も、杖をひきながらフィールドワークをした。

 ヒロシマに関わる本は多く、『ヒロシマ花物語』(1990年)、筆者が呼びかけたシンポジウムのまとめ『女がヒロシマを語る』(96年)、『ヒロシマの少年少女たち 原爆、靖国、朝鮮半島出身者』(15年)のほか、長崎の被爆者の狩野美智子さん、被爆者で作家の中山士朗さんとの往復書簡も、それぞれ出版されている。

 これらを読むと、戦前戦中から現在までの広島が重層的に示され、長崎の被爆者にも、忘れられている朝鮮半島出身者の被爆にも目を向けて、原爆被害の実相を広く、かつ多面的にとらえて問題提起していることがわかる。

 11年からは個人ブログ「ごまめ通信」も始め、時事問題への率直な思いを書き続けた。

 東日本大震災から3カ月後の第1回では、原発報道が「政府発表そのままの垂れ流し」とメディアをきびしく批判。「非常時」という言葉に戦時下のそれを重ね、「ドサクサ紛れの恐ろしさ」を指摘している。

関千枝子さん(2018年撮影)

 10年後の今また、コロナ禍で「非常時」や「国難」の言葉が飛び交う。昨年12月には、「コロナを軽視するわけではありません、でも、恐れるあまり集会は全部オンラインというのはおかしいですね」と書き、絶筆となった2月13日には、何が何でもオリンピックを開こうとしていることに疑問を呈した。

 女学校時代の友人から「あなたはいつも学校中を走り回っていたわね。歩いている姿を見たことがない」と言われたそうたが、高齢になっても、いつ寝るのだろうと思うほど、各地の平和集会、研究会、裁判などに走り回っていた。

 最後に会ったのは昨年12月中旬。わたしが代表をしている研究会のシンポジウムに来てくれた。そこで手渡されたのは「唯一の被爆国 日本政府に核兵器禁止条約の署名・批准を求める」署名簿。唯一の被爆国である日本が批准したら、同じような核の抑止力という幻想の中にいる国々に大きな影響を及ぼし、世界の大勢が変わると信じていると。

 しかし核兵器禁止条約の批准国が50カ国に達し、今年1月22日に発効したが、日本政府は見向きもしなかった。

 別れぎわの会話。「コロナなんかに負けないでね」と関さん。「関さんも」と返すと、「まだ死ぬわけにはいかないのよ。言いたいことがいっぱいあるから」

 静かな決意を秘めた声が今も耳に響く。

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