大滝詠一の寄り道、はっぴいえんどから「A LONG VACATION」ができるまで 1981年 3月21日 大滝詠一のアルバム「A LONG VACATION」がリリースされた日

__リ・リ・リリッスン・エイティーズ ~ 80年代を聴き返す ~ Vol.17
大滝詠一 / A LONG VACATION__

発売予定は1980年7月28日、大瀧詠一の誕生日だった

このところずっと、80年代を聴き返すって趣旨で、80年代に発売されたアルバムを1作ずつ、今改めて聴いて何を思うかということを書いているのですが、まず1980年発売のアルバムに重要作が多くて、もう16回書いたんだけど、まだまだ次の年にいけそうにない。

そんな中で今回は、大瀧詠一さんの『A LONG VACATION』が3月21日に40回目の “誕生日” を迎えるので、それについて何か書こうと思って、ちょっとフライングして81年に行ってしまうのですが、そもそもはこのアルバムは80年、大瀧さんの誕生日の7月28日に発売する予定だったんで、まあいいかと。

ちなみに「大瀧さん」と書きましたが、シンガーとしては「大滝詠一」、作曲、編曲、プロデュースなどそれ以外は「大瀧詠一」という表記らしいので、それに則っています。

「A LONG VACATION」ができるまでの10年の“寄り道”

日本の音楽文化の中で、自分はどういう音楽を創るのかということに、大瀧さんほど自覚的だった人はそういないんじゃないかな。1970年に、“はっぴいえんど” で始まったその営みが、ナイアガラ・レーベルやCM音楽での様々な“実験”を経て、1981年、『A LONG VACATION(長いんで以下ALVとします)』で答えを見つけた。『ALV』は大瀧さんの音楽家としての“結論”みたいな作品だと思っています。

結論が出るまでの10年の多作さと、それ以降亡くなるまでの30年の寡作ぶりを比べると笑っちゃうくらい極端ですが、それだけ、結論を出すまでに、考え尽くし悩み抜いたんだと思います。

ただ、あとから眺めると、大瀧さんが当初から持っていたアメリカンポップスのメロディ感覚と、はっぴいえんどからの盟友松本隆さんの歌詞、このふたつが “結論” の大部分なんですから、やろうと思えばもっと早く、初ソロアルバム『大瀧詠一』(1972)の時点ではさすがにまだその意志がなかったでしょうが、次作くらいではできたんじゃないかと思ってしまいます。

なんでそんなに寄り道したの? という疑問がどうしても浮かんでくるのです。

で、大瀧さん、おしゃべり好きですから、音楽家にしては珍しいくらい多量の語録が残っていますが、それらを読み拾っていると、どうも松本さんとの距離感というかバランス感覚といったことを気にしているフシがある。やはり松本さんとの関係がキーポイントなのかなという気がしてきます。

心に響く音楽の湿度 はっぴぃえんどの湿度の理由は?

雑誌『東京人』の2021年4月号で、松本さんがこんなことを語っています。

「(前略)日本の歌謡曲や演歌って湿っぽいじゃない? だからはっぴいえんどでは、そういうウェットさのない音楽を作りたかったんだ。ところが、いざ曲を作ってみるとけっこうな湿度があってさ。たぶん原因は、大滝詠一の声なんだな。僕と細野さんは港区、茂は世田谷区の奥沢出身だけど、大滝さんだけは岩手だったからね。彼が持ち込んだ東北の血みたいなものが、結果的にはバンドサウンドに快適な湿り気をもたらして。過度にドライでもウェットでもない、普遍的な音になったと思う」

実は大瀧さんも同じこと、「はっぴいえんどは意図に反して湿度がある音楽になった」という発言をしています。その理由は語っていませんが。大瀧さんの声はウェットだろうか?よくわかりません。だけど、私はそのはっぴいえんどの湿度は、松本さんの詩によるものだと考えています。はっぴいえんど時代はかなりシュールで、のちの松本さんよりはずいぶん乾いていたとは思いますが、湿度があるからこそ心にしっくりくるんです。

そして、松本さんは「仮想敵」である歌謡曲業界に飛び込んで、適切な(必要な)湿度を学んでゆく。いわゆる演歌のような「湿 / 暗 / 重」に対しては、はっきり「乾 / 明 / 軽」なんですが、うるおいのような艶のようなほどよい湿度。だから成功した。端的に言えば、湿度がない音楽は日本人には売れないと思います。

大瀧詠一の決心、“松本隆なしでドライに徹する”

だけど大瀧さんはドライで闘おうとしました。松本さんと組むとウェットになる、と思っていたかどうかは分かりませんが、アルバム『大瀧詠一』での「五月雨」や「あつさのせい」で手応えを感じ、そう決めたのではないでしょうか?松本さんなしでドライでやっていくと。

2ndソロ『ナイアガラ・ムーン』(1975)ではアメリカ南部やラテンの様々なリズムスタイルの見本市。歌らしい歌は「楽しい夜更し」くらいで、他はメロディも歌も二の次って感じ。自信を持ってドライに振り切りました。

ところが思ったほどの反応がなかった。レコード会社のエレックが倒産してしまうという逆境もあったのですが、早くもやや不安になったのか、次の『ゴー!ゴー!ナイアガラ』(1976)では「こんな時、あの娘がいてくれたらナァ」などメロディアスな曲を少し増やし、かつ歌の存在感を上げています。この間、吉田美奈子が歌った「夢で逢えたら」(1976)もありました。これは評判がよかった。

気をよくして、「夢で逢えたら」を自分でやったらどうなるかと考え、「青空のように」(1977)を創りますが、こちらは受けがよくない。この時、松本さんから電話で「あんなんじゃ売れないよ」と言われたそうです。詩が悪いと。

松本隆が必要なのにそう言わなかった

大瀧さんももう分かっていたと思います。ドライなリズムものは受けない。メロディアスな歌モノがいいんだろうけど、それには自分の詩では限界がある。松本さんの詩が必要だと。ただ既に松本さんはすっかりヒット作詞家になっている。友人なのに、いや友人だからこそ、お願いするのは気が引けたんでしょうか。

そして、『ナイアガラ・ムーン』の直後からアイデアを温めていたという『ナイアガラ・カレンダー』(1977)をリリース。「Blue Valentine’s Day」「青空のように」「真夏の昼の夢」「想い出は霧の中」のような『ALV』直結の素晴しいメロディもあるし、12曲それぞれに歌声を変化させるというボーカル技術にもうなってしまうほどの名作ですが、諸々のノヴェルティソングのせいで、やはり全体としては“色モノ性”のイメージが勝ってしまっている。そしてメロディアス曲はやはり詩が弱い。全力を注いだというこのアルバムはチャートインもできませんでした。

これで、大瀧さんのドライ路線は力尽きた。契約消化のためにまだ何枚かリリースはしますが、もう音楽をやめようかと思うくらい落ち込んだようです。

で、そこから『ALV』です。奇跡のV字回復、いや回復じゃないか、突然の「鯉の滝登り」。でもこうして眺めてくると、要するに、意を決して松本隆に詩を依頼しただけでしょう?でも、別に仲違いしたわけでもないのに、何でここまで依頼しなかったのか。また何でここへ来て依頼したのか。

『ロッキング・オン・ジャパン』1987年4月号で、渋谷陽一氏のインタビューに応えて、大瀧さんは、

「あそこに至るまでは松本とやるのよそうと思ってたんだよね。あのサウンドであのメロディで松本の詞だったら、ああいう風になるだろうなとはずっと前から思ってたけど」

と答えています。「あそこ」っていうのは「精神的にも経済的にも追いつめられた状態」ってことみたいです。

当時のCBSソニー担当ディレクターを直撃

分かるような気もするけど、なんか友情美談過ぎって感じがしなくもないな……と考えて、そうだ、当時CBSソニーで担当ディレクターだった白川隆三さんに訊いてみようと思い立った。彼は太田裕美の担当でもあったから、松本さんとはしょっちゅう仕事をしていたので、改めて二人を自然につなぐ役目をしたのかもしれない。あるいは、移籍第1弾ということで、レーベルからの条件として、「詩は松本隆でいってほしい」と希望するなどということがあったかもしれません。

電話をかけると、

「僕は途中から担当してって言われたんだよ。で、担当になった時、もう半分くらいのオケができてたんだよね。だから内容について僕がなんらか意見を言ったってことはないの」

とのこと。

最初の担当は川端薫という人。須藤薫の担当でした。大瀧さんは『ALV』の少し前に彼女に「あなただけ I LOVE YOU」を提供し、プロデュースしています。その縁でCBSソニーへの移籍が決まったのでしょうか。

その川端さんの連絡先は分からない。ということで謎は謎のままなんですが、その後、湯浅学さんが作った「大瀧詠一年譜」を見ていたら、『ALV』のレコーディングが始まる直前の4月に、大瀧さんが松本さんと打合せのために軽井沢へ旅行するんですが、そこに白川さんの名前もあるではないですか。半分くらいオケができてから担当になったのに、始まる前の打合せに参加しているのはおかしい。湯浅さんの勘違いかな?と思いつつ、再度電話。

「行ったよ。ちょっと遅れて朝妻さんと」
「え!? だって、軽井沢はレコーディングの前ですよ」
「いやいや、その前からもうレコーディングは進んでたんでしょ。カセットで聴かされて、すごくいいですねぇって言ったもん」

その音は、その後歌と楽器はいろいろ足されているけど、確かにレコードになった音だったと言うのです。

「A LONG VACATION」に新たな謎?

こりゃたいへんだ。大瀧さん自身も何度もいろんなところで、

「1980年4月18日、CBSソニー六本木スタジオのAスタで、「君は天然色」から『A LONG VACATION』のレコーディングが始まった」

と明言しています。なのに、それ以前に既に半分くらいの曲がレコーディングされていたとは。ナイアガラーおよび大瀧詠一研究家のみなさん、新しい謎ですよー!

ということで、私が抱いた小さな謎を追っていったら、新たな大きな謎に行き当たってしまったというお粗末。まことに話題のつきないアルバムですなぁ。

あなたのためのオススメ記事
大滝詠一「A LONG VACATION」チャートアクションの背景には何があったのか!?

カタリベ: 福岡智彦

80年代の音楽エンターテインメントにまつわるオリジナルコラムを毎日配信! 誰もが無料で参加できるウェブサイト ▶Re:minder はこちらです!

© Reminder LLC