米国144人、岩手県。韓国107人、仙台市―。東日本大震災当時の日本政府は、地震直後に被災地へ手を差し伸べてくれた世界各国の支援部隊の記録を資料に残している。23に及ぶ国と地域の中で、ひときわ遠方から来たのは約1万4千キロ離れた南アフリカの部隊だ。彼らは被災地で何を思い、その後の10年をどう過ごしたのか。南アの最大都市ヨハネスブルクを訪れ、総隊長として部隊を率いた元消防士のイアン・シェールさん(71)に思い出を語ってもらった。(共同通信=菊池太典)
▽肌を刺す風
私たちは南アの非政府組織(NGO)「レスキュー・サウスアフリカ(RSA)」のメンバーです。RSAは事故や災害での現場活動の技能向上を目指して有志で設立しました。日本に行ったのは男女45人。人種や職業が多様で、南アらしい部隊だったと思います。
3月19日に宮城県へ入り、沿岸部を中心に1週間、不明者を捜索しました。大変だったのは気候の違いです。南アの3月は温暖な季節ですが、宮城では氷点下の日もありましたから、冷たい風で肌が痛かったのをよく覚えています。それでも全員、集中していましたね。倒壊した建物などから多くのご遺体を発見することができました。
活動中は被災地のみなさんの礼儀正しさに驚かされました。物が乏しいのであちこちで行列ができていたのですが、混乱が起きない。給油所でも車が整然と並んでいる。被災現場では考えにくいことです。治安の良さが印象に残っています。
日本の方と直接の交流を持つ機会は限られていましたが、警備をしてくれた宮城県警の担当者とは身ぶり手ぶりで少しずつ打ち解けていきました。南ア国旗の胸章をプレゼントしたら、後日、胸章を縫い付けた制服姿で現れてくれたのです。彼も被災者のはずなのに、心遣いに強い友情を感じたものです。
▽立ちふさがる原発
日本での大地震を知った時、すぐに現場行きをアピールしました。RSAは既にイランやハイチの地震など、海外での活動でいくつか実績を積んでいましたから、日本と南ア双方の外交官の協力でスムーズに派遣が決まりました。南アの名だたる企業が次々と援助を申し出てくれたので、資金繰りに悩むこともなかったです。
いざ向かうとなって、東京電力福島第1原発が大きな懸案となったことは事実です。原発が深刻な状態だと明らかになってきたことで、ある大口の支援者は現地入りに反対し「行くのならば今後は支援しない」とまで言ってきました。私たちの活動はどんな現場であれ危険がつきもの。危ないから行かないという選択はあり得ませんでした。
ただし、勇敢であることと愚かであることとは別です。放射線防除の専門家をメンバーに加えて万全の体制で臨みました。3月18日午後に成田に到着してすぐに陸路を北上したのですが、移動中は常に風向きや線量に警戒していました。19日未明に拠点となる宮城県利府町の運動公園に到着した後も同じです。雪とともに放射性物質が降ってくる恐れがあると考え、一定以上の降雪で退避するというシナリオも用意していました。幸い、現場を離れなければいけないような状況にはならず、予定の25日まで活動することができました。
▽援助側にも回れる
なぜ遠い果ての被災地まで行ったのか。長年にわたってアフリカに援助をしてくれた日本への恩に報いたいという気持ちがあったのはもちろんです。同時に、アフリカは援助されるだけの存在ではない、援助する側にも回れるのだということを内外に示したいという思いも強くありました。
海外での被災地救援には、各国の部隊が共通のルールや手順に従い実施するための枠組みがあります。私たちもこの枠組みの中で活動し、他国に劣ることのない水準でやり遂げたのです。
日本での活動後はRSAに変化が起きました。アフリカ南部の国々のレスキュー部隊を訓練する役割を広く担えるようになったのです。主な資金協力者は日本と米国でした。日本は仕組み上、直接の援助は難しかったのか、国連人道問題調整室(OCHA)を通して協力してくれました。
マラウイやボツワナ、ナミビアといった周辺国に専門家を派遣して講習をしたり、ヨハネスブルク大にある訓練施設に優秀な人を呼び寄せたりしました。私たちが関わる訓練を受けたのは周辺8カ国で4500人に上るでしょう。救援用の器材を配布することもできました。これらの国のレスキュー施設には、今も日本の国際協力機構(JICA)のステッカーが貼られた器材が待機しているはずですよ。
▽挑戦は続く
一緒に日本へ行ったメンバーの中には、今や地方のレスキュー隊の責任者を務めている人もいます。しかしそうなると現場からは遠ざかりますよね。既に半数以上は管理職になるなどしてRSAの活動から離れてしまいました。日米の援助が終了し、残念ながら訓練プログラムも止まりました。この1年は新型コロナウイルスの流行で活動事態が難しく、RSAの事務局も専従は私1人になっているのが現状です。
しかし災害や事故がある限り私たちが不要となる日は来ません。今は若い世代をどう育成していこうかと考えています。例えばレスキューに興味がある学生に、教育実習と活動を組み合わせたプログラムを提供できないだろうか。新型コロナを意識しつつも、新たな試みに挑戦し続けていくつもりです。
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イアン・シェール 1949年南ア生まれ。79年からヨハネスブルクで消防士。2000年ごろ、消防士や医師ら約10人でRSAを設立し、現在はRSAの最高経営責任者(CEO)。