東京五輪実現への本当のハードル 日本は西欧的権威IOCとどう向き合う

 新型コロナウイルス禍は、五輪の在り方そのものを問うきっかけをつくった。国内では、東京大会の開催の行方ばかりが注目され、背後で「君臨」する国際オリンピック委員会(IOC)の本質について語られる機会は少ない。

 時として西欧的エゴをあらわにするIOCは「バチカン」に重なって見える。こうした性質は、ノーベル賞委員会や国連教育科学文化機関(ユネスコ)などでも見られる。日本は、西欧発祥のしたたかな組織とどう向き合うべきなのか。(文明論考家、元バチカン大使=上野景文)

 ▽「聖人」認定という権威

 五輪開幕まで半年を切った2月初旬、大会組織委員長の森喜朗氏が「女性蔑視」発言で職を追われた。IOCは当初、森氏続投を支持したものの、国際世論の激しい反発を受け批判姿勢に転じた。同氏の辞任は、IOCの意向が影響したと指摘する向きもある。

IOCのコーツ調整委員長(奥)と大会組織委の森喜朗会長(当時)=2019年11月1日、東京都中央区

 2013年の招致決定以降、IOCの意向が物事を動かす様はこれまでもあった。マラソン会場の札幌移転を巡る騒動は記憶に新しい。暑さ対策が理由とはいえ、IOCは、反対する東京都の意向を無視した形で押し切った(少なくとも私にはそう感じられた)。

 決定に合理性があることは認めるが、そのプロセスはやはり問題があったと言うほかない。国民の多くはIOCのやり方を強引と受け止めたことだろう。

 IOCは、オリンピック憲章の中で、スポーツを通じて平和な社会の実現をうたう。超一流のアスリートを「認定」し、見る人をハラハラ、ドキドキさせる。国際社会の福祉に貢献する「公共財」としての役割を担っているのである。

 国際的な公共財という点では、医学、物理学などで多大な貢献をした人物を認定するノーベル賞委員会や世界遺産を選定するユネスコ、あらゆる分野の世界一を認定するギネスブックといった「スーパーブランド認定装置」とも共通する。食の「聖地」を決めるミシュランガイドも同じ発想だ。

2013年のノーベル平和賞授与式=オスロ(ロイター=共同)

 注目すべきは、これら組織の出自はいずれも西欧にある点だ。ノーベル賞委員会はストックホルム、ユネスコはパリ、IOCはローザンヌから世界を睥睨(へいげい)する。日本はおろか米国にもこうした「スーパーブランド認定装置」は存在しない。これら公共財を産み出すことで西欧が国際社会に貢献した点は正当に評価したい。

 では、なぜ西欧は、そうしたソフトを生み出せたのか。

 ここで、カトリック教会で続く「聖人」認定の営みについて考えてみたい。バチカンでは過去2千年にわたり、ローマ教皇がカトリック世界において最高の崇敬対象となる聖人を認定してきた。絶対的権威であるローマ教皇から聖人の称号が「下賜」された国の関係者はいたく感激する。

ローマ教皇フランシスコ(AP=共同)

 ノーベル賞委員会やIOC、ユネスコが、物理学や医学、棒高跳びなどの「聖人」、文化や歴史上の「聖地」を認定する作業は、教皇が聖人を認定する作業とそっくりだ。かれらの営みの原型はバチカンにあると言ってもあながち間違いではなかろう。ノーベル賞委員会やIOCなどは「ミニバチカン」と呼んでも良さそうである。

 教皇による聖人認定と同様、IOCなどによる「下賜」に関係者が歓喜するのも、それらの権威が世界中で受け入れられていることの証しだ。それ故、それら機構は優位な立場を維持できるのである。

 ▽権威バックに西欧中心主義

 ただ権威の維持は容易ではない。選定や認定の根拠となる基準は合理的で信頼できるものでなければならない。この点で「国際標準」づくりは、西欧の得意技である。

 一方、彼らは、自分たちの息のかかったルールを国際社会が受け入れることに執着する。普遍性、中立性をどんなに標榜(ひょうぼう)したところで「西欧色」を完全に排除することはできないのである。それは時として、人事を含め、「西欧中心主義」「西欧偏重」として表出する。

 先に触れたマラソン会場の札幌移転はその一例であろう。皇帝(教皇?)であるかのようなふるまいで、西欧的権威をまとったIOCの「本性」があらわになった瞬間ではなかったか。

東京五輪のマラソンが札幌市で開催されることを伝える号外=2019年11月1日、札幌市

 ジャンプ用スキー板の長さの規制や、背泳に絡むバサロ泳法の規制なども同様だ。日本にとっては不利だが、西欧には有利な改定がなされた。

 柔道でもカラー柔道着着用や「技あり、有効、指導」などの点数システムの導入など国際的な決定の多くは、西欧、とりわけフランス主導でなされてきた。

 ノーベル平和賞で言えば、授賞先は、北欧的理念、西欧的理念が反映したものになりがちなのはよく知られている。バチカンのコンクラーベがそうであるのと同様、西欧本位は明白だ。

 このようにIOCなどの機構は、したたかさで定評のある西欧が産み出したものであるだけに、御し難い体質を持つ。何より「権威」をバックに強気なのだ。この点はもっと知られてよい。

 ▽「非常時」テコに強力な議論を

 多くの人の関心は、今夏の東京大会がどうなるかであろう。開催方針を巡りIOCと「一戦を交える」ことが必要な時期が迫っている。

東京五輪・パラリンピック組織委員会の橋本聖子会長=3月5日、東京都中央区

 開会時期までに世界全体のコロナ禍が収束するとは考えにくい。各種の世論調査でも、国民の多くは今夏の開催は難しいと展望している。困難である以上、日本側から再延期を軸に代替案(秋開催への転換を含め)を早々に提示するべきだ。

 ネックとなるのは、米国の放映権料の問題だ。IOCには、特定国のイベント(米プロフットボールNFL)を万国のイベントより優先することの「非」を突くほかない。

 IOCに日本の意向をのませることは容易ではない。ここはコロナ禍という「非常時性」をテコに強力な議論を仕掛けることが肝要だ。

 森氏の従来の発言を聞く限り、既存の契約の枠を突破する、または「米国の壁」を乗り越えようとする気概や発想は全く感じられなかった。後任の橋本聖子会長はもとより、政府には、IOCを上回るしたたかさと胆力を持って、彼らを説得してほしい。

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