「復興って何だろう?」考えた末、会社辞め被災地に移住 陸前高田の地域おこし協力隊員

道の駅の飲食店前で、客を呼び込む竹田耕大さん=2020年12月、岩手県陸前高田市

 「カキやイクラ、メカブの海鮮丼はいかがですかあー!」。岩手県陸前高田市の復興祈念公園内にある道の駅・高田松原で、同市の地域おこし協力隊員、竹田耕大(たけだ・こうだい)さん(28)の元気な掛け声が響いた。東日本大震災後にボランティアとして支援に関わった後、被災地への思いを抱き続け、勤めていた会社を辞めて神奈川県厚木市から移り住んだ。「復興とは何か」。そう自分に問いかけながら、道の駅のスタッフとして運営に携わっている。(共同通信=加我晋二)

 ▽「また津波が来るかも」

 震災から3カ月後の2011年6月、大学1年だった竹田さんはボランティア活動のため、岩手に向かった。きっかけは「大学を退屈と感じていた時に、友人に誘われたから」だった。

 ある日、陸前高田市でがれき撤去をしていた時、誰かがこう言った。「被災した線路を同じ場所に復旧しても、また津波が来るかもしれない。でも高台に作るにはお金がかかる。難しいね、復興って何だろうね」。この言葉が妙に心に引っ掛かった。建物やインフラを元通りにするだけでは、復興と言えないのでは―。

 「復興支援と呼ばれる活動をしているのに、『復興』が何か分からない。それが気持ち悪くて、自分の中で明らかにしたかった」

道の駅高田松原などが入る、高田松原津波復興祈念公園

 継続的に通い続けようと、大学に戻り友人とボランティアサークルを立ち上げた。長期休暇や土日を使って岩手県に足を運んだ。がれき撤去の他、仮設商店街の運営支援や関東の学生を対象とした視察ツアーを実施。大学祭では岩手の郷土料理や名物を販売したり、メンバーが撮影した被災地の写真で展示会を開いたりした。

 ▽テーマパーク運営会社に

 「復興とは何か」は卒業論文のテーマにもした。避難マニュアルの策定に関する住民説明会に参加し、仮設商店街の理事長へのインタビューも実施した。4年間通い続け、行政や住民、ボランティアの捉える「復興」がそれぞれ違うと気が付いたが、明確な答えは出なかった。

 「現地に住んでみなければ分からない。でも今の自分が移住しても何もできない」と、卒業後はまず地元で社会人経験を積むと決めた。

 昔から、人を楽しませる空間を作る仕事に興味を持っていた。陸前高田にもそんな場所をつくりたいと、修行のつもりで横浜市のテーマパーク運営会社に就職した。

 約3年勤めた後、陸前高田市の「道の駅設立事業」の地域おこし協力隊に応募。会社員経験を生かして人を呼び込み、にぎわせることができるかもしれないと思った。18年に移り住んだ。

道の駅の前で、被災地への思いを語る竹田耕大さん=2020年12月

 地元を離れることに抵抗はなかった。陸前高田に行ける楽しみが強かった。当初は仮設住宅の空き部屋に入居し、現在は災害公営住宅で生活する。市内に同世代の移住者は多く、同じ志を持った人たちがたくさんいた。

 道の駅では、売り場の配置決めや、事業計画作り、備品の購入など開業準備に関わり、19年9月にオープン。「ここがスタート。道の駅から陸前高田をにぎわせていく」との気持ちだった。

 ▽地魚ドンコを使ったメニュー

 竹田さんは「町とテーマパークは似ている」と語る。市内でも地域ごとに、山や海、リンゴや米の産地、さまざまな伝統芸能など特徴がある。それぞれの魅力を発信する、町の「玄関口」になるのが道の駅だ。

 現在は飲食の担当として三陸のカツオや地魚のドンコを使ったメニューの考案に取り組みつつ、特産品を売り出す季節のイベントや水族館コーナーの企画にも携わる。「見に行ったよ」「面白かった」などと住民に喜ばれた。今後はさらに、市内の各地を自転車で案内するツアーなど、道の駅を拠点とした観光事業に取り組む。

道の駅の飲食店で、料理を提供する竹田耕大さん(左)=2020年12月

 陸前高田で生活を始め、ボランティアとして通っているだけでは見られなかった変化や住民の思いをたくさん感じた。地元の和太鼓団体の練習や、伝統芸能の「生出鹿踊(おいでししおどり)」に参加し、震災後の苦難の中でも続けてきた文化に触れた。家族を失い「俺だけが生き残っちまった」と話していた近所の高齢男性が「今の生きがいはアユ釣りなんだ」と毎日さおを持って笑顔で出かけていく姿を見た。

 これまでは「復興」を町の単位で大きく捉えていたが、今では小さなコミュニティーや、人の数だけ復興の形があるのではないか、と考えるようになった。だからこそ、明確に言葉で定義するのは難しいと思っている。「道の駅がさまざまな形の『復興』を表現する場所になればいいですね」。自身への問いと、これからも向き合っていく。

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