あの頃の大垣鈍行

夜が明けた名古屋駅に着いた大垣鈍行。長い停車時間中に顔を洗った=1974~75年ごろ

 若い頃、東京発大垣行きの東海道線夜行の各駅停車に乗ってよく西への旅をした。仲間うちではこの電車を「大垣鈍行」と呼び、親しんでいた。鈍行だから金を浮かせることができ、深夜に東京を出て早朝、名古屋に着くという、時間を有効活用するのにうってつけのダイヤだった。鈍行という旅らしい気分も味わえる。熱海から浜松あたりだけは〝快速〟となり多くの駅を通過するのも魅力だった。大垣から西明石行きの各停に接続していたので京都、大阪方面に行くときも使えるなど遠距離志向の旅好き若者に似合いの電車でもあった。

 社会人になってからは大垣鈍行に乗ることもなくなり、この後を「ムーンライトながら」が引き継いだことは知ってはいたが関心からは遠ざかっていった。

 やがて「ムーンライトながら」も定期運行からはずれ、それすら既に昨春には運行終了していたことを最近の報道で知った。自分の若い頃の西への旅を支えていた歴史ある大垣鈍行は後継電車も含めとっくに時刻表から消えていたのだ。知らなかった。

 大垣鈍行はまたの名を「347M」と言った。列車番号が347の電車だからだ。番号は時々変わっていたようだが友人の間では「来週347で大阪に行こうか」なんて会話が成り立っていた。

 自分の鉄道記録を見る限り、大垣鈍行に乗ったのは高校生から大学生まで5~6回はある。旅行先も京都、福岡、北陸、山陰などさまざま。目的地に向かうための格好の電車だった。記録には「旅は23時28分の大垣行き夜行普通電車で始まった。電車なのにかなりの長距離。真っ暗な車窓を眺め時々浅い眠りにつき、ふと気づくと夜明け。岐阜あたりだったろうか。東の空は明るい」「347Mは予想した通り、混雑していた。立客だらけ。うたた寝を繰り返し結局眠ることができないまま大垣に着いた」などと書かれている。

大垣鈍行のダイヤ。347Mや途中の駅通過が確認できる=75年3月の「日本交通公社時刻表」

 何回乗ってもいつも眠れなかった。自由席普通車ボックス型直角シートはとても安眠できる状況ではないし、車内灯はずっと消えずまぶしかった。座れない客は遠慮なく座席の肘掛けに腰を下ろし眠っている。下りの長距離最終電車の役割も果たし、小田原あたりまでは帰宅客で結構な混雑ぶりだった。サラリーマンは缶ビールを飲んだり、床に新聞紙を敷いて週刊誌を読んだりして帰宅の途につく。たばこも吸い放題だったのではないか。大人の世界を垣間見た。どこか開放的で雑ぱくでいいかげんながらも、誰も車内環境に文句を言うこともない時代だった。

 名古屋には夜が明けた朝6時ごろに着いて20分ほどの停車時間があった。ホームの水道で顔を洗ったり歯を磨いたり、弁当を食べたりした。

 大垣からはわずかな乗り換え時間で西明石行き各停に接続していた。さらに京都、大阪方面に向かうときにはホームを走って遅れないようにして乗り込んだ。今度はこの地区が朝の通勤時間と重なりこちらはこちらで混んでくる。

 ほぼ半世紀前の懐かしい湘南色のあの頃の夜行鈍行。今や移動手段も増え、旅の形も大きく様変わりした。車内の明かりが消えず長時間深夜から明け方の駅に愚直に止まる夜行電車を好む旅好き若者は今や少ないだろう。

 長い時間東京駅ホームで並んで自由席をダッシュで確保し、乗ったら乗ったで、ほこりっぽい車内で直角シートに座り続けた末の尻の痛さは今も懐かしい〝青春の思い出〟となっている。

 ☆共同通信 植村昌則

※汐留鉄道倶楽部は、鉄道好きの共同通信社の記者、カメラマンが書いたコラム、エッセーです。

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