「大地の子」は終わっていない 置き去りにされた日本人たち、問題は2世に

 中国残留孤児が訪日調査に参加し、初めて故郷の地を踏んで今年で40年になる。故山崎豊子さんの小説「大地の子」でも描かれ、その壮絶な人生は1980~90年代にかけて社会的関心を集めた。帰国者への支援法などで孤児たちを巡る環境は整備されつつあるが、問題は今、子ども世代にも広がっている。(共同通信=山上高弘)

2世への支援拡充を訴える中国残留邦人ら=2019年10月、福岡市(日中友好協会福岡県連合会提供)

 中国残留孤児は戦前・戦中に国策で中国東北部(旧満州)に渡り置き去りにされた人々で、戦後しばらくして、その多くが帰国を果たした。1981年3月に初めて訪日調査が行われ、国に認定されて永住帰国したのはこれまでに2557人。孤児は終戦時おおむね13歳未満だったとされ、それ以上だった「婦人等」を合わせた永住帰国者は6724人に上る。残留孤児をテーマにした山崎さんの代表作の一つ「大地の子」は91年に 単行本が刊行された。その後、NHKドラマにもなり、俳優の上川隆也さん が孤児の役を熱演したことで知られる。

 

 ▽ママと呼べなかった

 「1993年11月、57歳の私は飛行機から降り、深呼吸しました。夢にまで見た自分の祖国に立ち、うれしさでいっぱいでした」。残留孤児の川添緋砂子さん(85)=福岡市=は帰国の瞬間をこう振り返る。

 ソ連が満州に侵攻した45年8月9日、川添さんは父の仕事で現在の黒竜江省にいた。家族と共に原始林の中を必死に逃げ回り、何日も歩き続け、草や木の葉を食べてしのいだ。20日、ソ連軍に遭遇し、同省牡丹江の収容所に送られた。身重だった母は出産後に亡くなり、生まれたばかりの赤ちゃんは中国人に引き取られた。生死は分からないままだ。

 その後、父や妹とハルビンの収容所に移された。10月の満州の雨はいてつくほど冷たく、寝具や食料もない中、コンクリートの床で眠り、ただ死ぬのを待った。ソ連兵は毎日、死んだ人を乱暴にトラックに載せていった。

家族との写真を前に、思いを語る中国残留孤児となった川添緋砂子さん=2020年2月、福岡市  

 ある朝、父が息を引き取った。飢えと寒さで起き上がる力もなく「父が運ばれていく姿をただ目で追うことしかできなかった」。その夜、もうろうとしていると足音が聞こえた。父の知人の中国人たちに川添さん姉妹はそれぞれ引き取られた。

 出稼ぎでハルビンにいた養父に男手一つで育てられた。小学生になり、同級生に日本人だと知られると石を投げられるなどのいじめが続いた。「誰も知らない場所に行こう」と、養父の故郷、山東省青島に移った。初めて養母に会った時は「身長は低く、顔が黒くて美人じゃない」と思ったという。養父に促されても、どうしても「ママ」と呼べなかった。

 春節(旧正月)前のある日、半年ぶりに中学の寄宿舎から片道35キロの道を歩いて帰省すると、養母は外で雪まみれになって待ち続けていた。「私は初めて大きな声で『ママ、ママ…』と叫びました」。養父母の愛情に応えようと一生懸命勉強し、小学校の教師になった。

 93年に帰国を果たしたが、日本語は話せず外出できない日々が続いた。「小学生の孫の宿題も分からず、恥ずかしかった」。60歳を過ぎて日本語学校に通った。「同じ境遇の孤児の力になりたい」と、帰国者の会での活動も続けてきた。

2世への支援拡充を訴える川添緋砂子さん=福岡市(日中友好協会福岡県連合会提供)

 2007年の帰国者支援法改正を受け、川添さんら1世の暮らしは改善されつつあるが、最も懸念するのは大人になってから親と共に日本へ渡った高齢の2世の苦境だ。「今は1世よりも2世が大変。残留孤児の問題は終わっていない」

 ▽老後の不安募る2世

 「年金、もらえるのは月1万9千円。将来が心配。助けてほしい」。「九州地区中国帰国者二世連絡会」会長の小島北天さん(73)=福岡県志免町=は、たどたどしい日本語で打ち明ける。

 終戦後の47年、遼寧省奉天(現瀋陽)で中国人の父と残留婦人の母との間に生まれた。母の帰国に伴い97年から日本で暮らすが、「日本語ができない50歳に仕事なかった」

記者会見で中国残留邦人2世への支援拡充を訴える小島北天さん=3月、福岡県庁

 平成不況で雇用を切られるなど、転職は6回を重ねた。今は週3日、パートで働きながら妻や娘らと暮らす。年金を合わせても世帯収入は月に十数万円。「もし大きな病気にかかったら大変」

 2世は中国語が母語として身についた30代以降での帰国が多い。小島 さんのように残留婦人の子の中には、残留孤児とほとんど変わらない年齢で帰国した人もいる。日本語がうまく話せないため正規雇用を得られなかったり、年金加入期間が短く老後の生活にも不安を抱えたりしている。国は支援法改正で1世への老齢基礎年金の満額支給を認めたが、2世への経済的支援は含まれなかった。17年に同連絡会が福岡、佐賀、長崎、熊本4県で2世を対象に行った調査では、210人のうち6割が生活保護を受けていた。

 中国残留邦人の問題に詳しい神戸大の浅野慎一教授(社会学)は「2世は学歴や帰国時の年齢が多様なために共通の課題が見えづらく、苦境の要因が個人の問題として捉えられている。帰国が遅れた責任は国にあり、経済的に困っている2世に必要に応じて支援をするべきだ」と指摘する。

2世への支援拡充を求め、街頭署名を呼び掛ける小島北天さん(左)ら=2019年10月、福岡市(日中友好協会福岡県連合会提供)

 現在、九州や関西の帰国者らが中心となり、2世への支援法適用を求める署名活動を続けている。全国で計10万筆を集め、6月の国会請願を目指す。交通費などの資金を捻出するためのクラウドファンディングも始めた。(https://readyfor.jp/projects/ncf)

 ▽未認定の「孤児」

 国はこれまでに2818人を残留孤児と認めたが、2012年を最後に新たな認定はない。一方で「日本人として認めてほしい」と、国に訴え続ける人もいる。

 「生活難のため子育てができず、5歳の娘を引き渡します」。ハルビン出身の郜鳳琴(こう・ほうきん)さん(77)=熊本県菊陽町=は色あせたぼろぼろの便箋を取り出した。1949年6月、長野県の開拓団出身の生母と、中国人養父が交わした証明書だ。

中国人養父から手渡された証明書を手にする郜鳳琴さん(右)。左は夫の庄山紘宇さん=2020年10月、熊本県菊陽町

 小さい頃は「日本鬼子」と周囲の子どもたちにいじめられた。18歳で結婚したが、日本人の子どもと知ると夫の態度が一変した。「国に帰れ」と突き放され、ほどなくして離婚した。養父から証明書を手渡されたのは日中国交正常化の72年のこと。身上がはっきりし「日本に帰りたい」との思いが芽生えた。地元公安局に相談して肉親捜しが始まった。

 82年、訪中調査団に参加していた生母とハルビンで再会でき、2人で涙した。ただ、生母は父親については口をつぐんだ。その後、手紙を送るなどしても返事はなく、音信不通になった。

 孤児の認定を受けるには両親が日本人との証明が必要だ。郜さんは厚生労働省に申請したが却下された。未婚の子だったのか戸籍になく、父親の証明が不十分だったとみられる。支援団体の協力で証言を集めるなどしたが状況は変わらず、今から10年ほど前に生母が死去したと、人づてに聞いた。

 郜さんは2年半前、87年に帰国した孤児で支援者の庄山紘宇さん(83)と再婚し、配偶者として「帰国」が実現した。日本語は話せないが、夫婦で仲むつまじく暮らす。「故郷に帰れてうれしい。ただ自分のような境遇の人は中国にまだ数百人はいる」とも話し、国に柔軟な対応を求める。

 満蒙開拓平和記念館(長野県阿智村)の寺沢秀文館長は、十数人の認定支援を個人的に続けてきたが、「時間がたち、新たな証拠を探し出すのは難しい」と話す。

 浅野教授は「残留孤児になったのは戦前・戦後の国の政策が不十分だったことに原因があり、自己責任ではない」と指摘した上で、「国はどのような証明が足りず、なぜ認定できないのか情報を開示し、手助けを図るべきだ」と訴えている。

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 中国残留孤児 太平洋戦争末期の1945年8月9日のソ連軍による満州侵攻に伴う混乱で、肉親と生き別れたり、死別したりし、現地に取り残された日本人の子どもたち。満州には当時、国策によって日本からの開拓移民が多数居住していた。国の不十分な引き揚げ政策によって帰国が遅れ、公的年金にも加入できなかったため、2007年に帰国者支援法が改正され、特例で老齢基礎年金の満額支給が受けられるようになった。一方で親と共に帰国した子ども世代への経済的支援は盛り込まれなかった。

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