【著者インタビュー】編集長も三度泣いた! 下山進『アルツハイマー征服』 治療法解明までの人類の長い道全世界で約5000万人の患者とその家族が苦しむ「アルツハイマー病」は、がんと並ぶ治療法が未解決の病。だが研究が進み、現在ついに希望の”光”が見えてきた――発症した患者、その家族、治療薬を開発する研究者たち……いくつものドラマが重なる治療法解明までの長い道のりを描いた、傑作サイエンス・ノンフィクション!

下山進 | Hanadaプラス

アルツハイマーが治るかも

――(聞き手・花田紀凱)読売新聞、日本経済新聞、ヤフーの三社の戦いを描いた前作『2050年のメディア』もすばらしかったけど、本書『アルツハイマー征服』は感動した! 3度泣いたよ。

アルツハイマー病解明、100年の歴史なんだけど、研究者の世界がともかく凄まじい。僕は病気や脳については下山クンが書いていることを十全に理解できたわけではないだろうけど(笑)、ある研究者は捏造事件を起こし追放され、またある研究者は志なかばで文字どおり憤死する。それでも一歩ずつ進歩がある。いくつもの人間ドラマがある。

これだけ時間をかけ、海外の研究者たちにも直接取材し、こんなレベルの高いサイエンス・ノンフィクションはこれまで日本になかった。

下山 ありがとうございます。そう言っていただけると嬉しいです。

――アルツハイマー病をテーマにしたノンフィクションを書こうと思ったきっかけは?

下山 そもそものきっかけは2002年の夏、認知症学会で米国から来日したデール・シェンクという科学者とパークハイアット・ホテルで朝食を食べる機会があって、話を聞いた時です。

アルツハイマー病は、神経細胞の外に老人斑と呼ばれるシミができて、次に神経細胞内に神経原線維変化という糸くずのような固まりができる。そして神経細胞が死んで、認知症と呼ばれる症状が出てきます。

これらがドミノ倒しのように起きるのですが、デール・シェンクは最初のドミノを抜くことを考える。

老人斑はアミロイドβと呼ばれるタンパク質が固まってできたもの。であれば、アミロイドβ自体をワクチンとして注射すれば、抗体を生じて老人斑を分解するのでは、と考えたわけです。これは画期的なアイデアでした。

実際、アルツハイマー病の症状を呈するトランス・ジェニックマウス(遺伝子改変マウス)を使って実験をしてみたら、老人斑はマウスの脳からきれいさっぱりと消えた。

人類が初めて、アルツハイマー病の進行を逆にした瞬間でした。アルツハイマー病は非常に近い将来治る病気になるという熱気が、当時、研究の現場にはありました。これはノンフィクションになる、と奮い立ったわけです。

――次に、遺伝性のアルツハイマー病との出会いがあった。

下山 アルツハイマー病全体の1パーセントに満たない数ですが、遺伝性のものがあります。その家系に生まれると、50パーセントの確率で若年で発症します。その遺伝子のどこかに突然変異があるのではないか、それがわかればアルツハイマー病の謎が解けるのではないか……。

90年代にそれを特定するレースがありました。日本では、弘前大学の医学部と国立武蔵医療センターが共同で、14番染色体の800万塩基までしぼりこみます。そのときに協力をしたのが、青森の家系の人々でした。彼ら、彼女らの献身によって、アルツハイマー病の解明は進むんです。

デール・シェンクとの出会いから始まった。

一度取材は頓挫したが……

――それから18年、よくエネルギーが続いたね。

下山 実は2006年に取材は1回頓挫して、執筆も諦めるんです。

デール・シェンクらが開発したワクチンAN1792は、治験は米国から欧州にまで広げたフェーズ2に進んでいましたが、深刻な副作用が報告されて、結局中止になる。その後に出てきたバピネツマブもうまくいっていない。思った以上に先が長い。

そうすると、遺伝性のアルツハイマー病の家系の人々の運命もようとしてわからない、ということになる。

弘前大学の医学部で、突然変異を追いかけた田崎博一さんに2005年に話を聞きましたが、こんなことを言われました。

「突然変異の場所はわかった。しかし、アルツハイマー病は治療法もなく、将来の展望もない。なので、患者家族に突然変異の有無を伝えることはできなかった」

治療法に対する道筋が見えないかぎりこの本は書けない。そう思い、2006年には一旦このプロジェクトは頓挫する。

――それが再開したのはいつ?

下山 2017年の夏です。前にも話したと思いますが、文藝春秋は当時ごたごたしていて、私も辞めようと思っていた時に、元同僚で直木賞作家の白石一文さんと電話していたら、

「シモちゃん、前にアルツハイマー病の取材していたけど、あれを本にしたらどう?」

と言われたんです。ふと本棚を見たら、30冊近くあった取材ファイルの背表紙は日に焼けていた(笑)。いやー、無理だよなぁと思いながらもファイルを開けて見てみると、これが結構おもしろい。

そこで改めてインターネットで現在の状況を調べてみると、大きな進歩があったことがわかりました。

一番の変化は、2017年にDIAN(優性遺伝アルツハイマー・ネットワーク:The Dominantly Inherited Alzheimer Network)研究が始まっていたこと。アメリカのセントルイスにあるワシントン大学が始めたもので、遺伝性のアルツハイマー病の世界的なネットワークをつくろうというものでした。

前の取材時は、遺伝性アルツハイマー病の人たちはバラバラで孤立していたのをまとめる仕組みができていたのです。日本もそのDIANに参加。これによって、遺伝性のアルツハイマー病の家系の人たちも新薬の治験に入ることができるようになりました。

そして2006年の時点では、遠いように見えていた根本治療薬の開発も、承認申請までいきそうだということを知った。ここで改めて「書けるかもしれない」と思って再取材をし、ついに上梓できた、というわけです。

――ノンフィクションは時間がかかるものだけど、デール・シェンクと会ってから、20年という時間が必要だったんですね。

下山 2002年にデール・シェンクが蒔いた種は「アデュカヌマブ」という薬になって、まさにいま日米欧で承認申請がされ、アメリカではその結果が6月7日には出る予定です。

編集長も三度泣いた

――文章もさることながら、構成がうまい。読んでいて僕は3度泣きました。

まず、プロローグは青森に住むある家族の話から始まる。その一族は40~50代になると、その地の言葉で「まきがくる」、つまり認知症を発症する者が多い。患者の死後に解剖すると脳がどうなっているのかがわかって、そこからアルツハイマー病を解明するドラマに突入していく。

そしてエピローグ近くで、この青森の家族の女性がロンドンで行われた国際会議でスピーチをするんだけど、これが泣ける!

下山 国外に一度も出たことがない遺伝性アルツハイマー病の家系の女性が、ロンドンの総合大学ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンで、世界中の研究者などを目の前にしてスピーチをする。

スピーチでは45歳で発症した母親の人生を語り、母親の結婚式の時の写真をスライドで映しました。

《昔、母はよく「お父さんみたいな人と結婚しなさい」と言っていました。母がなぜそう言っていたか、いまならよくわかります》

スピーチを聞いていた他の国の家族だけではなく、研究者も激しく心を揺さぶられます。

研究者はそれぞれの名誉欲や野心がある。ポストがなければ研究できないし、予算も必要。何より激しい競争のなかで研究をしている。そうすると、時々「自分はなぜこの研究をしているのか」という原点を見失いそうになる。

そんななかで、彼女のスピーチを聞いて、自分が何のために研究を続けているのかを思い出すことができた、そう言っていました。

――もう一つ泣いたのは、ワクチンの開発に参加していた科学者ラエ・リン・バークがアルツハイマー病になってしまう話。まさか、ワクチン開発をしていた科学者自身が発症してしまうとは。夫のレジス・ケリーが健気に看病をずっとしていて、偉いんですよね。

下山 昨年4月にアメリカに2週間行って詰めの取材をする予定だったんですけど、そのうちアメリカでも新型コロナ感染が拡大して、結局Zoomでの取材になって、その時にレジスにも話を聞きました。

ラエ・リンは夜中にしょっちゅう起きるので、その対応をするから寝られない。施設に入れることにしたけど、いい施設は年間12万ドルもかかる。家を売って費用の足しにして、仕事も続ける。自分は施設の近くに住む息子の家の地下室に住んでいて、Zoomで室内を少し見せてもらいましたが、本当に少ししか光が差さない地下室なんですよ。

――ラエ・リンは「Can I help you?」(何か困っていることはない?)が口癖だった。病気が進んでもう会話もままならなくなったのに、施設内で人に会うと必ず、「Can I help you?」」と尋ねる。この話も泣けました。

下山 たとえ病気になってもその人の本質は変わらないんだ、ということがわかるエピソードですよね。

映画『アリスのままで』のモデルにもなったラエ・リン・バーク。

研究職から左遷され

――日本に目を向けると、エーザイの研究者、杉本八郎の話もドラマチックでしたね。

下山 高卒でエーザイに入り、夜学で中央大学の学士をとる。母親が認知症になって助けたいという思いから、薬の創薬に取り組んだ人です。対症療法薬ですが、「アリセプト」という薬を90年代に開発する。

そんな人物なのに、ある時突然、人事部に左遷されてしまう。筑波の研究所を出ると雪が降っていて、ふらふらになりながら、高校卒業以来ずっと研究し続けてきた自分が研究者でなくなる、そんな自分が想像できなかったと言っていました。

――なぜ、内藤晴夫社長はそんな人事をしたんですか?

下山 直接インタビューで訊きました。内藤さん曰く、「はっちゃん(杉本)は薬を二つあてている。これで(運を)使い果たしたかなと思って……」とのことでした。

――それが理由で飛ばされたとしたら、ちょっとかわいそう(笑)。

下山 「そもそもアリセプトをすごいものだと認識していなかった」とも言っていましたね。

――それでも内藤さんが偉いなと思ったのは、アリセプトのFDA(米食品医薬品局)の承認がおりたら、出張先の香港から国際電話でいの一番に杉本さんに自分で連絡したことです。

杉本さんも社長の口から伝えられるとは思わず、家で奥さんに報告した時に喜びが湧き上がってきた。奥さんの「信じてやってきたかいがあったねえ」という言葉を読んで、ここでも泣いたな(笑)。

下山 内藤晴夫という人は、そういう面もある、親分肌なんですね。

彼がエーザイの筑波の研究所に副所長としてきた時に、研究室を1室から6室にわけて競争させて、それによって研究が大いに進んでいった。朝7時30分にはみんな出社して、夜9時に内藤さんが各室を見回る。彼がいなければ、エーザイは現在のように世界の製薬会社にはなっていなかった。

――杉本さんはアリセプトが承認されることで7年ぶりに研究所に戻ってくるんですが、若い研究者たちはもうかつてのような猛烈な働き方をしなくなっていた。そういう時代の変化もよくわかる。

下山 杉本さんはいまも自分で会社を作って、創薬をしています。いま化合した薬が、ようやくフェーズ2の費用が工面できた。承認までいくのに12年はかかる。「そうすると、自分は90歳。これはちょっとすごいでしょ」と言っていましたが、本当にすごい人物です。

エーザイの研究者、杉本八郎。彼なくして「アリセプト」はない。

内藤晴夫の賭け

――製薬会社の「特許の崖」というものも初めて知りました。

下山 新薬の特許の存続期間は申請後20年。特許が切れた薬は、どの製薬会社も同じ化合物を作って売ることができる。いわゆるジェネリックです。当然、値段は安くなり、売上も縮小する。

特許を申請するのは薬が承認された時ではなく、化合物が発見されたらすぐに出すので、実際に売れるのは14、5年。アリセプトのおかげでエーザイはグローバル企業になりましたが、特許が切れてからの3年間で売上は2000億円強も減ってしまった。

――どの製薬会社も同じ条件とはいえ、かなり厳しいですね。その20年の間に人も設備も大きくなっていますし、何とか次の新薬を開発しないと会社自体が駄目になってしまう。

下山 製薬会社のバランスシートを見ると、開発の費用のパーセンテージがものすごく大きい。売上の2割は占めています。

だから開発途中で失敗したら、それで会社が無くなってしまうこともある。デール・シェンクがいたエラン社もその一つです。

――企業経営者にとっては賭けみたいなもの。それでも新薬を開発しようと思う情熱はなんでしょう?

下山 多くの会社はそれなりにリスク分散しています。ただ、エーザイは特異で、売上規模は世界の製薬会社の20位くらいで、いろいろな分野でコマを張るわけにはいかないから、思い切ってガンとアルツハイマー病の創薬にだけ絞る決断を特許の崖のさなかの2010年代にしました。これは内藤晴夫という経営者でなければできなかった賭け。

――その賭けは勝てる?

下山 まさにそれが、アデュカヌマブの承認可否にかかっています。3月7日に結果が出るはずでしたが、1月29日、共同開発しているバイオジェンにFDAが追加の治験データ提出を求め、結果の出る期限が三カ月延長されました。

――何のデータ?

下山 「アデュカヌマブ」のフェーズ3は、2019年3月、前年12月までの治験データを「中間解析」(途中のデータを確認し、治験を続けても無意味だと判断したらここでやめる)をして、実は一旦中止になっているんです。

ところが、その12月から3月までの間も治験は行われており、そのデータがあとから入ってきたことで結果が逆転し、承認申請にいたるわけですが、問題は治験を途中で打ち切られた3000人余の治験者でした。バイオジェンは、希望する治験者には薬の投与を続けることにした。

その第三の治験が2020年8月から始まっていて、今年の1月で24週のデータが集まる。このデータを提出したのではないか――というのが私の推論です。

もちろん駄目になる可能性もありますが、わざわざ追加データを求めるのだから、承認される可能性は十分にあると見ています。

病気の人を救いたい

――延々と研究をし続ける研究者たちの情熱は、どこからくるものでしょう?

下山 取材を通して痛感したのは、一冊として読むから20年の研究の過程が全てがっているように見えるけれど、実際はそうではなく、研究者一人ひとりが、一つひとつの作業をひたすら毎日繰り返した結実です。

誰も関心が及ばないような、また説明しても理解してくれなさそうなことを、飽かず毎日やっている。失敗するかもしれない、会社の都合で中止になるかもしれない、ゴールがどこにあるのかもわからない。そういうなかで研究していくのは、大変なことです。その道に進むなら覚悟が必要でしょう。

では、そんな辛い研究でもなぜやるのか。それは名声や野心もあるけれど、やっぱり病気の人を救いたいという思いがあるからだと思います。

――メディア、アルツハイマー病ときて、下ちゃん、次のテーマは?

下山 やるからには大きなテーマに挑みたいと思って、いくつか温めています。ハルバースタムが80年代に日本の自動車産業が米国のそれを逆転した様を『覇者の驕り』で描いたけど、次はそういう大きなシステムの逆転を本にしたいですね。

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