【古賀稔彦さん三四郎伝説】教わった一本背負いで兄を投げ、腕ひしぎ十字固めでとどめ

ソウル五輪に向けた合宿で4人打ち込みを行った古賀さん(右)

柔道のバルセロナ五輪男子71キロ級金メダルで〝平成の三四郎〟こと古賀稔彦氏が24日に死去(享年53)。日本中が驚きと悲しみに包まれいるが、全日本柔道連盟の元強化委員長で、柔道私塾「講堂学舎」時代から古賀さんを指導してきた師匠の吉村和郎氏(69)は2011年7月に本紙で「金メダリストのつくりかた」を連載。当時のインタビューから「三四郎伝説」を3回にわたって振り返る。

【兄を倒す】

講堂学舎に入門当時、中学1年生だった古賀さんは160センチで体重50キロ。吉村氏は現役を引退したばかりで指導者としてセカンドキャリアを歩み始めていたところだった。

「おれは中学生でも容赦なく投げて絞め落としていた。普通みんな怖くて泣いてたんだけど、稔彦だけは泣かないし『まいった』と言わんのよ。それどころか、何がなんでもという気持ちがある。オレの顔をひっかくんだから。『なめとるな、こいつは』と思う一方で、何かもっているなとも思った」

そこにあるのは勝利への執念だ。吉村氏が「ダメならダメと言え」と促しても「絶対勝ちますから出してください」と断言していたという。

同じく柔道をしていた兄に対しても容赦がなかった。古賀さんが高校3年のときに出場した東京都のジュニア選手権の予選でのこと。古賀さん自身、兄を敬愛していたが、決勝で相まみえることになった。そこで試合前に吉村氏はこう古賀さんに言ったという。

「お前はここでアニキをヤルしかない。絶対に手を抜くな。逃げたら、オレが許さんからな」

実際の試合では、古賀さんは兄を一本背負いで投げた上に、腕ひしぎ十字固めを決めた。

「十字を決めるということは、とどめを刺すということや。そこまで稔彦は覚悟を決めたわけや。これでアニキを終わらせた。余談だが、稔彦の代名詞の一本背負いは兄から教わった。どういうタイミングで懐をもって、どこを決めるかというのはアニキのもの。それを試合でアニキにやりかえした」

そこにあったのは勝負にこだわる、すさまじいまでの精神力だった。

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